ポラリスの贈りもの

美砂子『“トリアージ”っていうのは、識別救急と言って、
  “トリアージ・タッグ”はね、
   災害医療現場で、
   救命の順序を決めるのに用いる色のついた札のことよ。
   救助隊や医療現場で意思疎通や情報を共有するために使うの。
   大事故や大規模災害などで多くの傷病者が出た場合、
   救助活動の現場や医療現場も混乱してしまうから、
   重症度・緊急度を分類して、
   速やかに治療が行われるようにするためのものなの』
星光 「う、うん」
美砂子『“トリアージ・タッグ”は、
   緑・黄色・赤・黒と4色に色分けしてて、
   それで患者さんの状態が大凡分かるんだけど、
   北斗さんが運ばれたとき、その色が赤だったってことなのよ』
星光 「あ、赤だと、どうなの?」
美砂子『生命に関わる重篤な状態で、
   一刻も早い処置をすべき状態ってこと。
   そして、CPAっていうのは医療用語で、
   Cardiopulmonary arrest(カルディオパルモナリー・アレスト)の略。
   心臓と呼吸が止まった状態だったってことよ』
星光 「えっ……」
美砂子『だから、北斗さんが運ばれたときは、
   かなり危険な状態だったってことね』
星光 「そんな……
   七星さんは、助からないかもしれないってこと?」
美砂子『星光。彼はICUに居るの?
   身体に何か機械がついている?
   喉に管が通ってたりしない?』
星光 「いえ。ICUではなく、彼の病室は広い一人部屋よ。
   機械は…酸素と、点滴と、心臓のモニターがあったと思う。
   喉に管はないけど、頭部に大きなガーゼを当ててネットをしてる。
   七星さん、しっかり息はしてるけど、まだ眠ってて」
美砂子『そう……
   (気管切開してないのね。
   それなら、溺水ではなかったのかしら。
   それにICUに入ってないってことは、
   重篤な急性機能不全はないってこと。
   肺や心臓には大きな所見が見られないのかもしれない)
   星光。彼の頭部に何らかの怪我をしたことで、
   今意識がないのだとしても、
   北斗さんが回復する可能性は大いにあるのよ」
星光 「本当!?」
美砂子「あのね、“脳のある部分が、
   失われた他の部分の機能を引き継ぐことがある。
   何週間も何か月も昏睡状態の続いた患者でも、
   脳に何らかの損傷を受けた人々でも、
   回復する可能性が実際にあった”って、
   医療雑誌に載ってたある外人医師の記事を読んだことがある。
   とにかく貴女は涙を拭いて、彼の病室に戻りなさい。
   そして彼の手を握って、笑顔で傍に居てあげるの。
   いい?」
星光 「笑顔でなんて私にはできない。
   私の姿も声も、彼には見えないし聞こえないのよ」
美砂子『いいえ。
   北斗さんはちゃんと見てるし聞いてる。
   貴女が泣いてることだって分かってるはずよ」
星光 「えっ(驚)お母さん、それって本当なの?」
美砂子『本当よ。星光、大丈夫だから私の言う通りにしてごらん。
   ずっと笑顔で励ましの言葉をかけてあげるの』
星光 「お母さん」
美砂子『北斗さんの身体は優秀な医師や看護師が四六時中、
   交代でしっかり見ているわ。
   でも彼の心は、貴女や仲間しか支えられない。
   いい?彼の身体のことはお医者様にお任せして、
   星光、貴女が北斗さんの心のナースになりなさい』
星光 「私が……
   (心のナースになる)」


泣きながら震える声で話している頼りない私に、
母は看護師として、
そして愛する父を看護し支えた一女性として、
専門知識を与え、力強く励ましてくれたのだ。
そして母のある一言が、
私の中に立ち向かう勇気と強い決心を芽生えさせる。


美砂子『星光。泣くのは北斗さんが目を覚ましてからよ。
   私もそうやってお父さんを支えたの。
   だから、貴女にもできるはず。
   北斗さんを心から愛しているなら、
   彼の心の中に入っていくことができる。
   目を瞑って深呼吸して心を落ち着かせれば、
   潜在する意識の中で支えることができるから、
   彼が目を覚ますまでずっと、
   貴女の想いを言葉にして話し続けてあげなさい』
星光 「お母さん。
   わかった。やってみる」
美砂子『星光。頑張るのよ』
星光 「うん。お母さん、ありがとう」


電話を切った私は涙を拭い、
一時の間冷たいコンクリートの上に座っていた。
母から言われた言葉を思い出しながら…
そして、目を瞑って不安な心に言い聞かせるよう呟き、
大きく深呼吸すると立ち上がる。


星光「大丈夫、大丈夫、大丈夫……
  (七星さんはただ眠っているだけ。
  疲れて眠ってるだけ。
  私の想いをずっと話しかければ、
  彼は必ず目を覚ましてくれる。
  そうよ。
  これは、七星さんに助けてもらった恩返しなんだ)」


大きな溜息をひとつついて、階段に足をかけ登ろうとしたとき、
ようやく私を心配して来てくれた浮城さんの存在に気がついた。
彼は穏やかな表情を浮かべ腕組みをし、階段の壁に凭れている。


浮城「星光ちゃん。大丈夫か?」
星光「はい。さっきは取り乱してしまってごめんなさい」
浮城「取り乱すのは無理もないさ。
  俺も、初めて病室に入ってカズの姿を見た時は、
  君と同じ気持ちだったんだ。
  まぁ、傍にはカレンも居るし、
  他のスタッフのこともあったから、
  ただ見栄這って冷静を装ってるだけなんだけどね」
星光「浮城さん。
  この状況で冷静になれるほうかおかしいですよね。
  今、母からアドバイスをもらったんです」
浮城「そっか。星光ちゃんのお母さんは看護師だもんな」
星光「はい。とっても優秀な天使です(微笑)」
浮城「そうだな。
  急に飛び出していったから、カレンが心配してる。
  それに、そろそろ東さんと流星も説明を終えて、
  病室に戻ってくることだと思うから、僕らも戻ろう」
星光「はい。七星さんも待ってますね」
浮城「ああ」


微笑む浮城さんは私の背中に手を添えると、
重く分厚い非常口の扉を引き開けて、
北斗さんの病室へ向かったのだ。



病室に戻ると、流星さんと東さんは話を終えて戻っていた。
カレンさんは私の顔を見るなり、抱きついて泣きじゃくる。
何も知らない二人はきょとんとしていたけれど、
後にカレンさんの涙の訳を知ったのだ。
暫くすると、担当医師から説明を聞いた東さんが、
北斗さんの現状と今後起こり得る後遺症の可能性を、
私たちに語りだした。
彼は幸いにも溺れて意識がないわけではなく、
何かの拍子に頭を強く打ってしまい、
そのために意識が戻らないのだと話した。
怪我の状態といつ目覚めるかは、北斗さんの体力次第だと。
流星さんは少しだけ安堵したように、
「やっぱり悪運つよい兄貴だ」と語り、
不幸中の幸いだったことに東さんの顔にも笑みがこぼれる。
眠っている北斗さんの顔をみんなで見つめながら、
スターメソッドの事務所で話しているような、
いつもの穏やかな仲間の会話に戻っていった。


暫くすると、東さんからホテルで休息するように言われる。
でも私は、ひとりで北斗さんの傍に居ると伝えた。
カレンさんと浮城さんはホテルに戻って仮眠を取り、
東さんは隣町の病院に搬送された他のスタッフのところへ向かう。
そして流星さんと私は、
病院から特別に許可を貰い、ここに居させてもらうことになった。
簡易ベッドを借りて、交代で仮眠を取りながら、
北斗さんの傍で一緒に眠ることにしたのだ。


(Y・マルセイユ総合病院4階。七星の病室)


簡易ベッドの上で疲れ切った体を横にして眠る流星さんと、
私の横で変わらず力強い呼吸をして眠っている北斗さん。
二人の眠る姿をベッドサイドの椅子に腰かけて眺めながら、
同じ部屋に三人で居るなんて久しぶりだなと、
勝浦の別荘での出来事を想い出していた。
私は北斗さんの手を握り、
彼の手の甲の小さな擦り傷を労わるように撫でながら、
目を瞑ると微笑みながら小さな声で話しかけた。


星光「ねぇ。七星さん。
  私ね。勝浦に居た時、七星さんの秘密を知っちゃったんだ。
  流星さんがね、こっそり教えてくれたんだけど、
  七星さんって“ツイン・ビクトリア”のポイボスファンなのね。
  寝る時に使ってるのはポイボスのクッションで、
  いつもぎゅっと抱きしめて寝てるんでしょ?
  それを聞いて、七星さんってクールでかっこいいのに、
  なんておちゃめなのかしらって思っちゃった」
七星「すーっ。すーっ…(呼吸音)」
星光「でもね、私だけが七星さんの秘密を知ってて、
  貴方は私の秘密を知らないのは不公平かなーって思ってね、
  だから、今だけこっそり教えてあげる。
  あのね。私は、ハイド伯爵の隠れファンだったの。
  ハイド伯爵がポイボスを壁に押し付け、
  顔を近づけると想いを告げて、
  押しつけるようなキスをした後に振り向かず立ち去るシーン。
  ハイド伯爵の潤んだ目がとても素敵で、
  今にも泣きだしそうなポイボスの顔が、
  何だか切なくて、見ててこっちまでドキドキしちゃった。
  あのシーンがいちばん好きだったけど、七星さんは好き?
  いつか私にも、
  こうやって想いを告げてくれる人が現れるんだって夢見てね」
七星「すーっ。すーっ…(呼吸音)」
星光「あっ。今、笑ったでしょ。
  なんて乙女チックなこと言ってんだって。
  でも、夏井ヶ浜の岸壁で、福岡空港のロビーで、
  糸島の玄界灘の見える丘で、
  幸福荘横の公園で、そして勝浦のおせんころがしの見える丘で、
  根岸さんのランクルの中で……
  貴方に見つめられた時、抱きしめられた時、キスされた時、
  私はポイボスと同じ想いだった。
  目の前にいるこの男性が私は大好きだなって。
  まるで……七星さんが、私のハイド伯爵に見えた。
  はい。星光の、
  ツイン・ビクトリア第一話“一目惚れの恋”でした(笑)」
七星「すーっ。すーっ…(呼吸音)」



しっかり目を開けて七星の寝顔をじっと見つめる。
そう……
私は彼の心のナース。
母の言った通り、目を閉じて心を落ち着かせ、
北斗さんが私を見つめながら、話を聞いてくれている姿を想像した。
彼の照れくさそうな微笑みが瞼の裏に浮かんで、
私まで照れてしまい、思わず微笑む。
彼の呼吸音を聞きながら、ゆっくり目を開け立ち上がると、
眠っている北斗さんの頬に顔を近づけてkissをした。
私は、真っ白いドレスを身に纏った、
ベッドサイドの天使になっていたのだった。


星光「七星さん。
  貴方を、この世の誰よりも愛してるよ……」

(続く)


この物語はフィクションです。
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