ポラリスの贈りもの
66、チェストボイス(共鳴)

翌日。流星さんは迎えに来た浮城さんと東さん、
現地社員数名と共に仕事へ出かけた。
そして私はカレンさんと交代して、
ホテルへ着くと真っ先にシャワーを浴びる。
着替えを済ませ化粧を終えると、
窓際に配置されている椅子にドスンと腰かけた。
テーブルの上にはカレンさんが用意してくれた、
朝食のクロワッサンとコーヒーがある。


(カレンのメモ)

『星光さん、お疲れ様。
 ホテルの朝食は美味しくないから、
 美味しいパン屋さんで買ってきました。
 お口に合うかわからないけど食べてね。
 食べて体力温存して、
 しっかり睡眠取らないと倒れちゃうからね。
 カズのことは心配しないで、
 夕方までゆっくり休みなさい。カレン 』


星光「カレンさん。ありがとう……」


北斗さんの事故を聞いて、
日本を出てから今日まで一睡もできてない私。
神経が昂っているのか、
ベッドに横になっても目が冴えてまったく眠れない。
そんな私を気遣ってくれたカレンさんに感謝しつつ、
クロワッサンをゆっくり千切って口に運ぶ。
本当なら本場の味に「なんて美味しいの!」と舌鼓を打ち、
笑みを浮かべ感動するのだろうが、
今の私には何の味も感じない。
窓から見える色彩の美しさ、
すっきり整い調和された建物のフォルムにも無感なのだ。
鳥のさえずりや遠くで聞こえる教会の鐘の音さえも心には靡かない。
結局食事は喉を通らず、コーヒーを一杯だけ飲み干して、
私はまた病院へ向かった。


その日の夕方。
神道社長がマルセイユに到着した。
仕事を終えた流星さん、東さん、浮城さんと合流し、
病院の一階にある待合室でカレンさんも加わる。

神道 「カレン、ご苦労様。七星の容体はどうだ」
カレン「脈拍・呼吸数・血圧・体温とも安定してきてるそうです。
   今日の検診で主治医から言われました。
   明日もう一度、脳の詳しい検査をするそうです」
神道 「そうか。星光さんは?」
カレン「彼女は病室に居ます。ですが、少し心配があって…」
神道 「ん?心配とは?」
カレン「今朝、ホテルで休ませるために交代をしたんですけど、
   ご飯もまともに食べていないし、
   睡眠も碌に取ってないんです。
   夕方に交代する予定だったんですけど、
   昼前には病院に戻ってきてしまいます。
   健気に看病する彼女の姿を見てると私、辛くて……」
浮城 「カレン」
流星 「病室でもベッド脇の椅子に座って、
   兄貴にずっと話しかけてる。
   それも笑顔で、兄貴の手を握ったまま。
   浮城さんの話じゃ、
   母親のアドバイスを受けて実践してるらしいんですが」
神道 「母親?」
浮城 「彼女がマルセイユに来た日、
   カズの容体を聞いて取り乱したことがあって。
   でも、星光ちゃんが母親と話してからは落ち着いてます」
流星 「彼女の母親は、
   新宿区にあるTM大学病院の看護師で看護師長をしています。
   俺の妻もそこの循環器内科でお世話になったんで、
   よく知ってるんです」
神道 「そうだったのか」
東  「生、どうする。
   実は彼女をこのままマルセイユに居させていいのか迷ってる。
   医師の話だとどうも、
   七星の回復は長期戦になりそうだしな」
神道 「そうだな……
   七星の容体が安定してるなら様子を見て、
   それこそTM大学病院へ転院させるつもりでいる。
   あそこの脳外科と外科に、
   俺の同級生が数名医師として常駐してるんでね。
   今回も、彼らが力を貸してくれてるんだが、
   七星をずっとマルセイユに居させるわけにはいかないからな」
東  「ああ」
神道 「その手続きもあって来たんだ。
   担当医と話をして、
   OKなら日本の医療チームに移送要請する」
東  「わかった。七星の病室へ行こう」


神道社長は皆に案内されて、
病棟へ向かうエレベーターに乗り込んだ。
深刻な表情を浮かべ、
4階へ向かう彼らの思いなど知らない私は、
七星さんの眠る病室で、雑誌を見ながら話していた。



(Y・マルセイユ総合病院4階。七星の病室)

星光「七星さん。見て?これ、美味しそうでしょ。
  良くなったら一緒に食べに行きましょうね。
  もしかして、ベジタリアンなんて言わないよね。
  それとも日本食の方がお気に召す?
  しかし。ほんとに美味しそうね……これ。
  ねぇ、七星さん。
  こういうお料理の写真を撮ったりもするの?」
七星「すーっ。すーっ……(呼吸音)」
星光「まるで飛び出す絵本みたいに、
  お料理が浮き出てるように写ってるよね。
  写真を見てるだけで、食欲をそそられるんだけど。
  んー。
  “Al crostacei con melanzane e zucchine fritte……
  Preparazione 35 minuti?
  Cottura 45 minuti…”どういう意味かな。
  35、45って、調理時間のことかしら。
  なんて書いてあるかわからないや。
  “フリッター”と“分”だけは分かるけど、
  フランス語って難しいわね。
  七星さんならわかるよね?」


突然「それはイタリア語だ」と耳元で聞こえた声に驚き、
私は慌てて立ち上がり振り返る。
後ろから聞こえた声は一仕事終えた神道社長で、
北斗さんの様子を見に来たのだ。


神道「茄子とズッキーニと貝のフリッターで、
  準備に35分。調理に45分かかるって書いてある」
星光「神道社長……」
神道「フランスに来てるのに、イタリアの雑誌を見てるのか?」
星光「えっ。ああ、これってイタリアの雑誌だったんですね。
  ホテルにあったから借りてきちゃって」
神道「そうか(微笑)
  七星……思ったより顔色がいいな」
星光「そうなんですよ。
  昨日までは少し青かったんですけど、
  今日は頬の辺りの血色が良くて。
  きっと良くなってる証拠です」
神道「そうだな。
  なぁ、星光さん。さっき七星に話しかけてたな」
星光「は、はい」
神道「流星からも聞いたんだが、
  ずっと七星に話しかけてるって?」
星光「はい。眠っていても彼の心は私の声を聞いているんです。
  七星さん、話してると時々笑ってくれるんですよ。
  それに、相槌だってしてくれて」
神道「星光さん、君の気持ちはわかる。
  この状況を受け止められないのもだ。
  でも現実、七星の意識がいつ戻るかはわからないんだぞ?
  それは半年になるか、一年になるかわからない」
星光「……」
神道「それで、明日担当医師と話をして、
  七星の状態が安定してるなら日本に帰そうと思ってる。
  転院先は新宿のTM大学病院だ」
星光「えっ」
神道「君のお母さんの勤めている病院だろ?」
星光「はい。あ、あの、社長。
  なぜそれを……」
神道「それでだ。
  明後日、君は私と一緒に東京に戻るんだ」
星光「えっ!?明後日」
神道「それまでは、七星としっかり話して支えてやってくれ」
星光「は、はい……」


思いもしなかった神道社長の言葉。
北斗さんは目を覚まさないまま帰国する。
そして私は明後日には彼と再び離れて、
日本へ帰らなければならない。
ずっと我慢してきた涙はまたも両目を潤ませ、
目を瞑ってしまうとこぼれそうになる。
私は軽く天井を仰いで必死で堪えた。

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