また、部屋に誰かがいた
部屋に誰かがいた【妻】
夜の匂いがする。最近、東京郊外に家を買ってから、会社帰りで駅からの道を歩いていると、
そんな匂いがすると松永圭一は思った。
嫌な匂いとか、臭いとかではない。いまは春で、あちこちで草花が咲いているが、そんな匂いとも少し違う。
それに朝の通勤時や昼間、仕事で都内にいるときにはない匂い。

それは清々しく、どこか懐かしい感じがして彼は好きだった。
1日の仕事が終わり、もうじき家にたどり着くというとき感じる、その感覚は彼にとって安堵と安らぎの象徴であった。
家では、妻が待っている。結婚してまだ半年くらい。勤め先が近く、仕事が終わる時間も圭一より早い彼女はいつも、先に帰っていて、美味しい夕食とともに仕事から帰る彼を迎えてくれる。そんな我が家に向かって、街灯と沿道の住宅からもれる明かりに照らし出された夜道を彼は顔を上げて歩いていた。

「ただいま」
玄関のドアを開け、大きな声でそう言った圭一を、妻がキッチンから迎えに出て来てくれた。

「おかえり」

圭一は美しい妻を愛していた。交際期間は2年あまりで、彼が指輪を差し出し緊張しながら告げたプロポーズを
彼女はニッコリ微笑んで受け入れてくれた。

「お腹空いたなぁ…お!今日もいい匂いがする。」

「ふふふ…こどもみたい…」

そう言って妻は少し笑って、

「さぁ、すぐご飯にするから、早く着替えて来て」

玄関にいた圭一を家の中へと促した。そして

「あら、肩に髪の毛が付いてる」

そう言って圭一の肩の方に手を伸ばしてきたが、彼は

「え?いいよ。上着を脱いで、自分で取るから」

そう言って、クローぜット付の寝室に向かった。

上着を脱いで見てみたが、もうどこかに落ちてしまったんだろう。肩の部分には何もついていない。
ネクタイも外して、部屋着に着替えると、彼は愛する妻の待つダイニングに向かおうとした。
ところが寝室の明かりを消して、ドアを閉めようとしたとき、その暗い部屋のなかで黒い影が動いたような気がした。

「え?」

驚いて、再びドアを開け、明かりをつけたが何もない。

「気のせいか…」

やや不気味な気配を感じながらも彼はダイニングに向かった。



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