【短編】あいのうた
……一ヵ月後。
テレビや、新聞、雑誌取材の報道陣を山ほど引き連れて、僕は、席に着いた。
これから僕は、円周率の暗唱世界記録への挑戦をするのだ。
現時点での世界記録は、どこかの親父の立てた10万桁。
20万桁の記憶を誇る僕にとって。
万全の体調で望めば、必ず越えられる数字だ。
「……それでは、始めてください」
緊張気味の、井上教授の合図に、僕は記憶の糸をたどり始めた。
青い空。
どこまでも続く、草原には、風が吹き。
小鳥が二羽、空を飛ぶ……
「3.1415926535……」
数字をイメージ通りにたどりながら、僕は長く、果てしない円周率という旅に出る。
そして……59桁目の。
……『7』
胸の痛みを予想して。
歯を食いしばって呟いた『7』は。
菜の花畑の匂いと。
眼鏡の女性のイメージを残して、ふわり、と過ぎ去っていった。
「……大滝さん?」
あまりのあっけなさに、思わず。
一瞬だけ、声を詰まらせた僕を気遣って井上教授が心配そうにささやいた。
……大丈夫。
僕は、やれる。
新しく手に入れた、愛しい『7』に微笑んで。
僕は、続く数字を滑らかに歌いだす。
きり、と頭を上げて。
僕にはもう、迷いは無かった。
「……75454326……」
僕の全てを賭けた20万桁への旅は。
今。
始まるのだ。
〈了〉


