【短編】あいのうた
「……大丈夫ですか?」
店を飛び出した、僕を追いかけてきてくれたらしい。
たぶん、一ヵ月後に迫った、公式の円周率の暗唱のため。
気遣ってくれる教授に、僕は手を振って応えた。
「……すみません、見苦しいところを……
でも……ダメみたいです……
僕は……恋人の奈々に振られて……要の数字を失って……
円周率の『7』がめぐってくるまでの数字、58桁までしか……」
……歌えません、という言葉は、涙に滲んだ。
僕のセリフに、井上教授が目を伏せたのを見て。
ああ、このヒトも僕から去っていくのだ、と思う。
『ヒトの記憶』を解明するのが、仕事の井上教授と僕は。
円周率が引き合わせた仲だった。
20万桁の数字を暗唱できない僕とは、もう、何にもかかわりなんてなかった。
「そうですか……それは、とても……本当に残念です」
二人、同時に去っていく予感に、僕は大きくため息をついた。
そのとき。
井上教授は、伏せていた目をしっかりあげて、僕を見た。
「……でも、私は、大滝さんが好きです」
「……え?」
「あなたが円周率の暗唱中にイメージしている、数字の旅は。
残念ながら、私にもわかりません。
だけども、大滝さん。
私は、あなたの声が好きです。
一つのよどみも、つまずきもなく。
正確に桁数を刻んでゆく、あなたの喋り方が、本当に大好きなんです。
あなたの声に包まれて過ごすことの出来る30時間は、私にとってかけがえのない時間だと思っています」
「井上……教授……」
呟く僕の声に、井上教授は、首を振った。
「……菜那(なな)です。
私もまた、菜那って言うんです。
大滝さん……私では。
私では、あなたの『7』の替わりには……なりませんか……!?」
ざざざざっ……
真珠色の涙で視界が曇り。
眼鏡を外した井上教授と僕の間に、風が吹く。
地平線まで続くような、菜の花畑の真ん中で。
僕たちは、改めて……出会った。
店を飛び出した、僕を追いかけてきてくれたらしい。
たぶん、一ヵ月後に迫った、公式の円周率の暗唱のため。
気遣ってくれる教授に、僕は手を振って応えた。
「……すみません、見苦しいところを……
でも……ダメみたいです……
僕は……恋人の奈々に振られて……要の数字を失って……
円周率の『7』がめぐってくるまでの数字、58桁までしか……」
……歌えません、という言葉は、涙に滲んだ。
僕のセリフに、井上教授が目を伏せたのを見て。
ああ、このヒトも僕から去っていくのだ、と思う。
『ヒトの記憶』を解明するのが、仕事の井上教授と僕は。
円周率が引き合わせた仲だった。
20万桁の数字を暗唱できない僕とは、もう、何にもかかわりなんてなかった。
「そうですか……それは、とても……本当に残念です」
二人、同時に去っていく予感に、僕は大きくため息をついた。
そのとき。
井上教授は、伏せていた目をしっかりあげて、僕を見た。
「……でも、私は、大滝さんが好きです」
「……え?」
「あなたが円周率の暗唱中にイメージしている、数字の旅は。
残念ながら、私にもわかりません。
だけども、大滝さん。
私は、あなたの声が好きです。
一つのよどみも、つまずきもなく。
正確に桁数を刻んでゆく、あなたの喋り方が、本当に大好きなんです。
あなたの声に包まれて過ごすことの出来る30時間は、私にとってかけがえのない時間だと思っています」
「井上……教授……」
呟く僕の声に、井上教授は、首を振った。
「……菜那(なな)です。
私もまた、菜那って言うんです。
大滝さん……私では。
私では、あなたの『7』の替わりには……なりませんか……!?」
ざざざざっ……
真珠色の涙で視界が曇り。
眼鏡を外した井上教授と僕の間に、風が吹く。
地平線まで続くような、菜の花畑の真ん中で。
僕たちは、改めて……出会った。