奏 〜Fantasia for piano〜
この音を聴けば、奏の六年の努力が伝わってくる。
右手の薬指のハンデと戦いながら、もがき苦しみ、それでも諦めずに前に進み続けた結果、涙が止まらないほどの圧倒的な音楽を魅せてくれている。
喜びと切なさが混ざり合うような美しいメロディは、複雑に絡み合い、やがて月の光に溶けるように緩やかに終わりを迎えた。
最後の一音の余韻が残る中で、奏は座ったまま体を私の方に向け、クスリと笑う。
「迷子になって泣いてるの?」
五歳の私がこうして奏に出会った夜は、迷子になって泣いていた。
でも今の私は迷子じゃない。
迷子になっていた恋心が、たった今、帰る場所を見つけたから。
止まらない涙を手の甲で拭いながら、「迷子じゃないよ」と嗚咽交じりに答えた。
奏がピアノの椅子から立ち上がり、私の目の前に来て両腕を広げる。
倒れるようにその胸に飛び込むと、背中に腕が回され、しっかりと抱きしめられた。
「まずは、綾に報告」
「うん」
「ウィーンの音楽事務所で俺はーー」
白いシャツの胸元に顔を埋めたまま、奏の六年間に耳を傾けた。
働きながら勉強する日々。
ハンデがあっても他の指でカバーして弾ける曲をリストアップし、その曲の世界を独学で深めること二年ほど。
そんなある日、同じ音楽事務所に所属するピアニストの巨匠、ロバート・マクスウェルに出会ったそうだ。
私もその人のCDを持っている。
数多いるピアニストの中で順位をつけるとしたら、間違いなく誰もがマクスウェルに一位をつけるだろうというほどの、次元の違う大御所だ。