君の声が聞こえる


「ねぇちょっとキコの彩花に近付くの、やめてくれる?」
 ショックを受けている間に終わっていた入学式の後、ふと気が付いたときには駆琉はそんな台詞をぶつけられていた。台詞と共に人差し指が向けられていたが、それがどうも自分に向けられているとは思えなくて、駆琉はぼんやりと視線をやった。

 誰かと思えば、ついさっき「彼女」と一緒にいた小さな女子生徒だ。150センチあるかないかの身長を少しでも高くするためか、かなり高いところで薄茶けた髪をポニーテールにしている。真ん丸な目や小さな鼻を相まって、何だかそのポニーテールが小動物の尻尾のように駆琉には思えた。
「聞いてる!?」
「えーっと、何の話だっけ」
「だーかーら! キコの彩花に近付かないで、って話!」
 彩花、ああ僕の運命の人。
 口に出したら殴られそうだったので、駆琉は心の中だけでそっと呟いた。そういえば同じクラスだったはずだ、それを思い出して教室を見渡す。

(いた。窓際の一番前の席)
 彼女と視線が交錯し、ドキリとする。立ち上がった彼女がこちらに向かってくる、自分に用があるに違いない。駆琉は息を吸い込んだ。そうだ、だって彼女は運命の人なのだから。
 彼女が目の前に来る。ドキドキドキ。膝の上に置いた手を思わず握りしめる。うつ向いた駆琉は、彼女の声を思い出した。
 何を話しかけてくれるのだろう。また声が聞きたい。頭の中では何度も聞いたことのある声だけれど、何度だって聞きたい。
 運命の人。僕の運命の人。

「キコ。変な人と話しちゃダメだよ」
 信じられないほど冷たい声で、彼女は言い切った。「え」と駆琉が顔をあげると、彼女の酷く冷たい視線とかち合う。長い睫毛の下の深い黒の瞳には、はっきりと嫌悪感が滲み出ていた。

 何で?
 だって、僕は、君の運命の人なのに。
 多分このクラスの誰よりも、君を知っているのに。

「あ、あの、あ、彩花、さん」
「馴れ馴れしく呼ばないで」
「苗字、し、知らなくて。で、でも僕はほら、君の……」
「あんざい。安西 彩花」
 きっぱり、と彼女は言った。
「あんざい、あやか」
 ずっと知りたかった名前。
 ずっと聞きたかった声。
 ずっと会いたかった人。
 それなのに、どうして?

 駆琉は少し青ざめながら、自分を指差した。
「本当に僕のこと、わからない?」
 冷たい視線を向けていた彩花が、首をかしげる。腕を組むと、彼女は駆琉の顔をまじまじと見つめた。
「……何処かで会ったこと、あった?」
「会ったこと! は……な、ないけど」
「何が言いたいの?」

 そうだ、会ったことはない。
 君の声だけが頭の中に落ちてきて、何もかもを知ったいるつもりになっていた。

 浮かれていた心臓が落ち着いて、その代わり血の気が引いていくのを駆琉は感じた。彼女はますます不審者を見るように駆琉を見つめ、「キコ」と名乗った小動物みたいな女子生徒は明らかに苛ついた様子で足を鳴らしている。

 会ったこと、なかった。
 話したことだって、ない。
 何も知らない、何もかも知っているけれど。
 彼女は、自分を知らない。

『なにそれ、気持ち悪い』

 ぐるり、と嫌な記憶がフラッシュバックした。
 それを振り切るように唇を噛み、駆琉は何とか言葉を紡ぐ。
「な、何も……」
 それ以上、どう言えばよかったのか。
 目の前の彼女は自分を知らないのだ、名前も声も何もかも。そんな彼女にとって自分は、妙に馴れ馴れしくて変なクラスメートだ。
 ふん、と小動物みたいな女子生徒が鼻で笑った。「行こう」、と彩花の背中を押して、ふたりは駆琉の前から去っていく。残された駆琉は、青ざめたままで拳を握っていた。

「大丈夫か?」
 隣から声がした。
 金色に近い髪色の男子生徒が心配そうに短い眉を寄せ、こちらを見ている。何とか駆琉は笑みを浮かべ、頷いた。「安西は綺麗だし大人しそうな外見だけど、ああ見えてすっげぇ気が強いからさ。あんまり気にすんなよ」
 九条 勇介と名乗ったクラスメートは、そういって八重歯を見せながら笑った。どうやら彩花と同じ中学だったらしい勇介は、駆琉が彩花に一目惚れしたと思ったらしい。「マジで気にするなって」と慰めてくれる、あっさりと玉砕したと思っているからだ。

(間違ってはいないけど)
 それでも彼女は僕の運命の人だよ、と言えるはずもなく、駆琉は苦笑いを浮かべた。勇介と何でもない話をしていると頭の中で声がする。
『あいうえお、かきくけこ……』
 さっきこの耳で聞いたばかりの声は、静かにそっと落ちてきた。彩花に視線を向けると、彼女は近くの生徒と何かを話している。その横顔が少しだけ緊張しているように駆琉には見えた。

(そういえば、どんな時に彼女は「あいうえお」とか思うんだろう)
 彼女は時々、何も考えていない時がある。心が繋がって、彼女が考えていることが駆琉に聞こえてくるはずなのに空白に染まるときがある。そういうことが起こるとき、彼女はその直前に「あいうえお」と呟いている気がした。
(でもよく考えたら、最近はそんな空白がない気がするな)
 24時間、365日、いつだって駆琉は彩花の心の声が聞こえているわけではない。だから、自分には聞こえていないときにその「空白の時間」を彩花が弄んでいたとしても不思議ではない。
 けれど、それまでの十数年も頻繁にあったのだ。何かがあって、彼女がその「空白の時間」の原因を手放したのだとしか思えない。

(受験勉強とかあったから何かやめた、とかかなぁ)
 真っ白な時間。
 心が繋がっている駆琉だけが共有できる、真っ白で何もない彩花の頭の中。
 それは酷く心地が良くて、駆琉はいつだってその「空白の時間」が好きだった。自分と同じように、彼女だってその時間が好きなんだと思っていたけれどーーー……。

(違ったのかな)
 結局、自分は彼女のことなんて何もわかっていなかったんだ。
 そう考えると自分が酷く馬鹿馬鹿しくて滑稽に思え、駆琉は溜め息を吐き出した。
『かけきくけこ、かこ……』
(さっきからずっと何か呟いてる……)
 表面的には楽しそうに話しているが、本当は面白くなから心の中で呟いているのだろうか。彩花の控えめな笑顔の裏に黒い本性が眠っているのかもしれない、と思ったら駆琉はぞっとした。

 そうだ本当は、彼女はとても酷い人なのかもしれない。
 他人のことなんて考えない自己中心的で、冗談とか通じないくらい酷い人なのかもしれない。人を傷つけることが大好きゆな人なのかもしれない。本当にそうであってくれたら、どれほど楽だろうか。

『ああ、なんで私の名前ってこうなんだろう』
 ふと、彼女の声が落ちてくる。
 すぐ近くで聞こえた気がして、駆琉は思わずドキリとしてしまった。その声の主である彩花はもちろん、窓際の一番前の席でクラスメートの話を聞いている。ストレートの長い黒髪と少し身長の高い身体は、クラスメートよりも幾分か彼女を大人びて見せていた。
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