君の声が聞こえる
(名前?)
 安西 彩花、だと彼女はいった。
 別に変わった名前ではない。九条の冗談に笑いながら、駆琉は彩花の名前に思いを馳せた。素敵な名前だと思う、それに何の不満があるのだろう?
 もしかして不満があるから、彼女はさっきから「あいうえお」と呟いているのか? 不満があるときに呟く言葉がそれだとしたら、彼女はほとんど毎日、それに結構な時間、様々なことに不満をぶつけていたことになる。

 やっぱり彼女は悪い人なんだ、と思ったとき、担任が入ってきた。ちらりと担任を見た彩花が小さくだが確かに溜め息を吐いたのを駆琉は見た。
(担任がおじいちゃんなのが不満、とか? おじいちゃんの先生って可愛いと思うけど)
 今にも倒れそうなほど年配の教師は、自分が数学担当の寺西と言う名前だと告げる。顔中にシワがあるせいで、細い目がどこにあるのかわからないくらいだ。

「ええっとそれじゃあ、みんなにも自己紹介してもらおうかな……」
 寺西先生は教室を見渡してから、彩花を差した。
「じゃあ出席番号1番の安西さんから」
「はい」
 彼女は落ち着いた態度で返事をすると、その場で立ち上がった。黒い髪がさらりと揺れる。男子の幾人かが魅了されたように彼女を見つめる中、駆琉の頭には声が落ちてきた。

『ほら、やっぱり』
(ほらやっぱり? やっぱりって……)
 彩花は実に堂々とした様子で、「名前と出身中学でいいですか」と教師に尋ねている。九条が駆琉の隣で「緊張しねぇんだなぁさすが安西」と呟く声がした。けれど駆琉の頭の中で、彩花は声を落とす。

『あいうえお、あいうえお、あいうえお、あいうえお……』
『かきくけこ、かきくけこ、かきくけこ、かきくけこ…… 』
『だからこの苗字はイヤ……』
『さしすせそ、さしすせそ、さしすせそ……』

 ああ、そうか。
 何だか可笑しくて、駆琉は笑いそうになった。クラスメートを見渡して、彩花は自己紹介を始める。何でもない顔で。堂々とした姿で。背筋をピンと伸ばして。

(緊張してたんだ、名前の順で1番だから)
「『あ』んざい あやかです。第一中学出身です。高校に入ってしたいことは、今しかできないことに全力をぶつけたいです。仲良くしてください」

 小さく頭を下げた彩花の本当の姿を、駆琉はほんの少しだけ知れたつもりになった。あんなに大人びて見えるのに、自分の苗字が嫌だなんて。緊張してないって顔して、担任が来る前から緊張してたなんて。

 そうだあのときも。
 初めて会ったあのときも。
 彼女はその呪文を唱えていた。クラスの発表くらいで緊張していたんだ、毎日そうやって繕ってきたんだ。些細なことでも緊張している自分をぐっと抑え込んで。

(可愛い)
 頭を抱えたくなった駆琉を見ていたらしい勇介が「え、安西の自己紹介でそんなにニヤけるなんてお前、マジで安西のこと気に入ってるじゃん」と妙な勘違いをしていた。間違ってはいなかったが。

「えーっと、九条です。九条 勇介! 気軽に九条とかユースケって呼んでください。第一中学出身で、えーっとサッカー部でした。高校ではフットサル部に入ろうと思ってまーす。まだ入ってねぇからわかんないけど、女子マネがいたらテンション上がるからとりあえず募集中でーす」
 それにしたってこの九条というヤツは、人見知りというものがまるでないらしい。
 八重歯を見せてニッと笑った九条は、テンション高いまま「よろしく!」と告げる。座った途端に人懐っこい笑みを浮かべ、「すっげえ緊張した」と話しかけてくるのだから。

「絶対に緊張してなかっただろ」
「スーパー緊張したわーマジで」
「絶対にウソだ。俺の聞いてた?」
 駆琉がそう返すと、勇介はへらりと笑っただけだった。

 この教室の席は、前から出席順に1、2、3……ではなくて、1の隣が2、1の後ろが3となっている。
 だから「か」の駆琉の隣が「く」の勇介なのだが、勇介の前に自己紹介した駆琉は酷かった。酷かった、と自分でもそう思ってしまうほどに。
「かかかかかなた、かなた かけるです。山ノ上中学からき……うわ!」
 自己紹介をするだけなのに、何故か机を巻き込んで転んだのだから。

「大丈夫だよ、駆琉っち。そういうこともあるって」
「あってたまるか」
「問題ないって。入学早々フラれたことより辛いことなんてないからさ」
「なに、君は僕を泣かせようと思ってる?」
 いつの間にやら自分のことを「駆琉っち」なんて呼んでいる勇介にますます傷を追わされ、駆琉は本当に泣きそうになった。
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