君の声が聞こえる
『こんなのじゃダメだ』
 まるで飛ぶように水を駆けていた彩花の速度が落ちていき、最後は明らかに力が抜けていた。プールサイドにあがってきた彼女は、眉間にシワを寄せながら赤いゴーグルを取り外す。ぴっちりと被っていた水泳帽を脱ぐと、1つにまとめていた長い髪がこぼれ落ちた。

 溜め息と一緒に、彼女は顔を拭った。駆琉がじぃっと彩花を見つめていると彼女はその視線に気付いたようで、顔をあげる。目が合う。駆琉が笑う。彩花が思いっきり口をへの字にする。

【終わるまで見てていい?】
 カバンから取り出したノートにそう走り書きしてガラス張りの向こうの彩花に掲げたが、彼女はさらりと無視して通りすぎていった。代わりに、他のスイマー達が不思議そうな顔をして駆琉を見ていた。


「安西さんって、水泳やってたんだ」
 その後しばらく彩花が泳ぐ姿を見て、ロッカーに戻った彼女を施設ので入り口で待って、駆琉は彩花に話しかける。
 彩花は何も言わないし、答えてもくれないが、何も言わないってことは嫌ではないと受けとることにした。
 桜並木をふたりで歩く。夢みたいだ、と駆琉は思った。ほんのついさっき、彩花と見たいと思っていた桜並木。薄桃色の桜の花びらと、まだほんのりと濡れて色気だつ彩花はとても良く似合っていて美しかった。

「すっごく早いんだね、ビックリしたよ」
 真っ白な世界に君はいた。
 その世界に昔から少しだけ触れてきたけれど、こんなにはっきりとそれを知れたのは初めてだった。
 彩花をもっともっと知れた気がする、けれどもっともっと知りたい。だって彩花は、駆琉の運命の人だから。

「でもさ、うちの高校って水泳部ないよね?」
 違う高校にすればよかったのに、という台詞は飲み込む。もしも彩花が水泳部を求め、違う高校に入っていたら出会えなかったのだから。
 いや、運命の人だからきっと出会えるだろうけれど。少し先になっていたかもしれない。

 駆琉は浮かれていた。
 会いたい、と願っていたら彩花に会えて。見せたい、と願っていたら彩花と桜並木を見ることができて。声を聞きたい、と思っていたら彩花の声を聞けて。名前を知りたい、と望んでいたら名前を知れて。
 何もかも望んだ通りになる。
 やはり自分と彩花は運命なんだ。
 お互いにすぐにわかりあえて、すぐに好きになって、愛し合って、これから毎日一緒にいれる。

「安西さんならもっと早く泳げるよ! 僕も応援するし。何もかもうまくいくよ! だってほら、僕は君の運命の人だから」

 駆琉を無視して前を歩いていた彩花が、立ち止まった。ようやく話してくれる気になったのかと、駆琉は彩花に駆け寄る。
 振り返った彼女の瞳は、怒りに燃えていた。

「あなたが私の運命の人?」
 ゾクリ、とする。
 長い睫毛の下で、彼女は駆琉を見る。
「あなたは私を好きになるの?」
「そう、そうだよ」
 だって、君は僕の運命の人だから。
 僕は君の運命の人だから。
 好きになって、愛し合って、それは当然のことだから。

「私の何を知っているって言うの?」

 氷を飲み込んでしまったかのように、少しずつ身体が冷たくなっていく。
 彼女のことは何でも知っている、だって君の声がする。君の心の声が聞きながら生きてきた、君の声が聞こえる。
 それを告げようとしたとき、頭の中でフラッシュバックしたのは「気持ち悪い」と駆琉に告げたクラスメートの声だった。気持ち悪い、そう彩花に思われてしまったら? そう思うと、君の心の声が聞こえていたから知っているよ、なんて駆琉は言えなかった。

 自分以外の誰も運命の人の声を聞こえないんだ、だから彩花にはわからない。
 いや、本当に自分の頭の中に落ちてくるのは彩花の声か? 妄想ではないとどうして言い切れる?
 彩花の何を知っている? 彩花があんなにも綺麗に泳ぐことを自分は知らなかった。

何も知らなかった。

「私はあなたのことなんて何も知らない。何もわからない。それなのに運命の人? 私があなたを好きになるの?」
「でも、だ、だって」
 彩花の瞳は駆琉を貫く。
 ごうごうと燃え盛るその瞳は、駆琉を焼き尽くす。

「あなたは何ができるの?
 何をやってきたの?
 誇れるものはなに?
 他人より優れているものはなに?
 あなたは何ができるの?
 私の何を知っているの?」

 指先が震える。
 言葉を発しようと思っても、声が出てこない。桜が散る。彼女の黒い髪が揺れる。少し青白い彼女の頬が夕暮れの赤で染まっていた。風が吹く度に、彼女からは塩素の匂いがした。


「私があなたを好きになると思う?」


 彼女はそう言い切ると、駆琉を置いて歩いていった。ああ、本当に。
 本当に。自分は何も知らない。彼女のことを何も知らない。
 自分には何もない。彼女に好きになってもらえるようなものは、何も。何も持ち合わせていないーーー……私があなたを好きになると思う? 私があなたを好きになると思う?

『あ、い、う、え、お』

 彼女の声がした。ああ。
(ああ本当に、君の声が聞こえるのに)
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