君の声が聞こえる
3
運命の人の心の声が聞こえる。
それはみんなが聞こえる当たり前のことで、
まさか自分だけが特別だなんて思ってもいなかった。
『ねぇ昨日さ、僕の運命の人が……』
小学生の頃、そうやってクラスメートに話しかけたときだった。
頭の中に名前も知らない女の子の声が聞こえることは、駆琉にとっては当たり前のことだったのにクラスメートはまるで化け物を見るかのように駆琉を見た。ヒソヒソと囁き合い、クラスメートは駆琉に告げる。
『気持ち悪い』
その瞬間、駆琉は気付いたのだった。
誰にも言ってはいけない。誰にも知られてはならない。これは自分だけの秘密だ。
彼女は、自分だけのものだ、と。
『あ、い、う、え、お』
放課後。
散々な入学式と新しいクラスを何とか乗りこえて、九条と話しているうちに彩花はもう帰ってしまっていた。彩花の腕に、まるで恋人のようにしがみつく彩花の友人に帰り際にぎろりと睨まれたことは覚えている。
もし叶うならば、もうちょっと彩花と話したかった。あの声を、自分の耳で聞きたかった。自分が知らない彩花を知りたかった。
けれど帰り際、彩花は駆琉なんて見もしなかった。そこにいないかというように、さらりと。
揺れる黒髪と、塩素の香りがした。
(彼女の声がする)
散々な一日だったと、駆琉がとぼとぼと帰っていると頭の中に声が落ちてきた。
きちんと聞くことができなかったその声は、やっぱり何度聞いても彩花の声でーーー……ああ、自分は運命の人に出会えたんだなぁと駆琉は思う。どれだけ嫌われたって、イヤがられたって、彼女と自分は運命なんだ。
目をつぶって、彼女の声を聞いた。
『か、き、く、け、こ』
1語ずつ、確認しているみたいに。彼女は心の中で呟いている。
今度は何に緊張して、何を誤魔化すために呟いているのだろう。今までは知らなかったその呪文の意味を知ることができて、駆琉は少しだけ微笑んだ。
散々な一日だった、と思っていたことが嘘のように心が軽くなる。彼女に出会えた、彼女の名前を知れた。運命の人。
『さ、し、す、せ、そ』
その声が聞こえたと同時に、空白が生まれた。 彼女の心の声が聞こえなくなったわけではない、確かに彼女の気配がするのに聞こえなくなった。
多分、彼女の心が今、真っ白になっているのだろう。
(ああ、この感覚は久しぶりだ)
去年の夏あたりまでは時々、彼女はこうやって頭を真っ白にしていた。真っ白で静かで何も考えなくても良くて、それは駆琉にとっても酷く心地よい時間だったのに。
ある日を境に、彼女はその感覚を拒絶した。本当にそれまで、頻繁にその感覚があったのに。
(でも中学に入ってすぐくらいが一番多かったな……やっぱり受験勉強があったから、何かをやめてたのかなぁ)
ゆっくりと真っ白な感覚がなくなっていくーーー……駆琉が目を開き、歩を進めた。桜を見ているふりをして立ち止まっていたので、駆琉を誰も不思議には思わなかっただろう。
頭の上で咲き乱れる桜を見上げ、駆琉は微笑んだ。
(ちょっと遠回りだけど、こっちの道を通ってよかったなぁ。図書館の近くは桜が多いとは知ってたけど、綺麗すぎて怖いくらいだ)
桜並木を花見がてら、散歩している人は多い。しかもここは図書館や市立の体育館やスポーツジム等の複合施設があるようなところなので、たちの悪い酔っぱらいがいないので穏やかに桜が楽しめる。
のんびりとした空気に当てられ、駆琉も桜を見ながらゆっくりと歩いた。
(ああ、安西さんと見たいなぁ……教えてあげようかな……というより、今はどこで何をしてるんだろう)
出会う前は、せめて名前だけが知りたいと思っていた。
名前を知った今となっては、もっと彼女のことを知りたいと思う。そんな自分が少し欲深く思えて、駆琉は肩をすくめた。
ちょうど強い風が頬を叩く。
薄桃色の花びらが舞う。
溜め息が出るくらいに美しくて、駆琉はどうしたってこの光景を彼女に見せたくて堪らなかった。ようやく会えたのだから、早く付き合って、もっとたくさんのことを知りたいと思った。
(だって僕たちは運命なんだから……)
『図書館の近くって、桜並木だったんだ』
彩花の心の声に、駆琉は驚いて息をのんだ。図書館の近く? 自分がいるところだ。
(え? 安西さん、もしかして近くにいる?)
慌てて見渡すも、周りに彩花の姿はない。違うところにいるのだろうか、それでも近くにいるのは間違いないだろう。駆琉は彩花の姿を探した。
『プールからあがったら、後で見てみようかな』
(プール?)
そういえば室内プールもあったっけ。
本当にすぐ近くに彩花がいるのだとわかって、駆琉は嬉しくなった。目と鼻の先だ。彩花の姿が見たくて、駆琉はプールに急いだ。
噴水がある大きな広場を挟んで図書館の真向かい。体育館やスポーツジムが入った複合施設の1階に、プールはあった。50メートルを泳げる大きなプールで、コースの数も多い。水深が2メートルもあるらしいそのプールは、その深さゆえか小学生くらいの子どもの姿はなかった。ダイエット目的で歩いている人もおらず、ただただ泳ぎ続けている人ばかりが目立つ。
ガラス張りのプールを見渡し、駆琉は彩花を探した。ちょうど駆琉がいるところは泳ぎきったところだったらしく、皆が次々とあがってくる。スイマー達は訝しげに駆琉を見たが、駆琉は気にしないふりをした。
プールサイドに上がってくる人を見つめても、彩花はいない。もしかしてもうあがってしまったのだろうか。
『た、ち、つ、て、と』
頭の中に声が落ちてくる。
ゆっくり、はっきり。彼女は呪文を唱えて、自分の気持ちを落ち着かせようとしている。彼女はきっと目をつぶっている、と駆琉は思った。何故かわからないが、絶対にそうだという確信があった。
『な、に、ぬ、ね、の』
深く深く呼吸をして、心臓と息を整えて。
彼女の血が、身体中を駆け巡る血が、冷たくなっていくのを駆琉は感じた。
『ドキドキすることを考えよう』
彼女は言う。
まるで駆琉の耳元で囁いているかのようだった。彼女が吐き出した息さえ、見えるようだった。
『お、おやすみをいった後の毛布の中』
『え、英語を話せるようになること』
『う、歌を聞くこと』
『い、犬を撫でること』
カウントアップだ。
落ち着いていたはずの心臓が、それに合わせて大きく鳴る。やかましい。
1つ息を吸って、彼女は目を開けた。
『あ、安西 彩花の30秒後』
彼女は、運命の人は、安西 彩花は、
その瞬間にスタートを切った。
水をかきわけ、大きく腕を回し、息を吸い込んで。水飛沫があがる、真っ白な空白が駆琉の頭の中に広がる。
駆琉の心臓が痛いくらいに鼓動を打った。彩花が近づいてくる。自分に向かって泳いでくる。クロールで泳ぐ彼女は、呼吸を忘れてしまうくらい美しかった。ほんの30秒にも満たないことのはずなのに、永遠に感じた。
真っ白で、静かで、何も考えなくても良い。何も考えられない、そんな世界がそこにあった。
『ダメだ』
けれどその世界は、実にあっさりと壊された。
運命の人の心の声が聞こえる。
それはみんなが聞こえる当たり前のことで、
まさか自分だけが特別だなんて思ってもいなかった。
『ねぇ昨日さ、僕の運命の人が……』
小学生の頃、そうやってクラスメートに話しかけたときだった。
頭の中に名前も知らない女の子の声が聞こえることは、駆琉にとっては当たり前のことだったのにクラスメートはまるで化け物を見るかのように駆琉を見た。ヒソヒソと囁き合い、クラスメートは駆琉に告げる。
『気持ち悪い』
その瞬間、駆琉は気付いたのだった。
誰にも言ってはいけない。誰にも知られてはならない。これは自分だけの秘密だ。
彼女は、自分だけのものだ、と。
『あ、い、う、え、お』
放課後。
散々な入学式と新しいクラスを何とか乗りこえて、九条と話しているうちに彩花はもう帰ってしまっていた。彩花の腕に、まるで恋人のようにしがみつく彩花の友人に帰り際にぎろりと睨まれたことは覚えている。
もし叶うならば、もうちょっと彩花と話したかった。あの声を、自分の耳で聞きたかった。自分が知らない彩花を知りたかった。
けれど帰り際、彩花は駆琉なんて見もしなかった。そこにいないかというように、さらりと。
揺れる黒髪と、塩素の香りがした。
(彼女の声がする)
散々な一日だったと、駆琉がとぼとぼと帰っていると頭の中に声が落ちてきた。
きちんと聞くことができなかったその声は、やっぱり何度聞いても彩花の声でーーー……ああ、自分は運命の人に出会えたんだなぁと駆琉は思う。どれだけ嫌われたって、イヤがられたって、彼女と自分は運命なんだ。
目をつぶって、彼女の声を聞いた。
『か、き、く、け、こ』
1語ずつ、確認しているみたいに。彼女は心の中で呟いている。
今度は何に緊張して、何を誤魔化すために呟いているのだろう。今までは知らなかったその呪文の意味を知ることができて、駆琉は少しだけ微笑んだ。
散々な一日だった、と思っていたことが嘘のように心が軽くなる。彼女に出会えた、彼女の名前を知れた。運命の人。
『さ、し、す、せ、そ』
その声が聞こえたと同時に、空白が生まれた。 彼女の心の声が聞こえなくなったわけではない、確かに彼女の気配がするのに聞こえなくなった。
多分、彼女の心が今、真っ白になっているのだろう。
(ああ、この感覚は久しぶりだ)
去年の夏あたりまでは時々、彼女はこうやって頭を真っ白にしていた。真っ白で静かで何も考えなくても良くて、それは駆琉にとっても酷く心地よい時間だったのに。
ある日を境に、彼女はその感覚を拒絶した。本当にそれまで、頻繁にその感覚があったのに。
(でも中学に入ってすぐくらいが一番多かったな……やっぱり受験勉強があったから、何かをやめてたのかなぁ)
ゆっくりと真っ白な感覚がなくなっていくーーー……駆琉が目を開き、歩を進めた。桜を見ているふりをして立ち止まっていたので、駆琉を誰も不思議には思わなかっただろう。
頭の上で咲き乱れる桜を見上げ、駆琉は微笑んだ。
(ちょっと遠回りだけど、こっちの道を通ってよかったなぁ。図書館の近くは桜が多いとは知ってたけど、綺麗すぎて怖いくらいだ)
桜並木を花見がてら、散歩している人は多い。しかもここは図書館や市立の体育館やスポーツジム等の複合施設があるようなところなので、たちの悪い酔っぱらいがいないので穏やかに桜が楽しめる。
のんびりとした空気に当てられ、駆琉も桜を見ながらゆっくりと歩いた。
(ああ、安西さんと見たいなぁ……教えてあげようかな……というより、今はどこで何をしてるんだろう)
出会う前は、せめて名前だけが知りたいと思っていた。
名前を知った今となっては、もっと彼女のことを知りたいと思う。そんな自分が少し欲深く思えて、駆琉は肩をすくめた。
ちょうど強い風が頬を叩く。
薄桃色の花びらが舞う。
溜め息が出るくらいに美しくて、駆琉はどうしたってこの光景を彼女に見せたくて堪らなかった。ようやく会えたのだから、早く付き合って、もっとたくさんのことを知りたいと思った。
(だって僕たちは運命なんだから……)
『図書館の近くって、桜並木だったんだ』
彩花の心の声に、駆琉は驚いて息をのんだ。図書館の近く? 自分がいるところだ。
(え? 安西さん、もしかして近くにいる?)
慌てて見渡すも、周りに彩花の姿はない。違うところにいるのだろうか、それでも近くにいるのは間違いないだろう。駆琉は彩花の姿を探した。
『プールからあがったら、後で見てみようかな』
(プール?)
そういえば室内プールもあったっけ。
本当にすぐ近くに彩花がいるのだとわかって、駆琉は嬉しくなった。目と鼻の先だ。彩花の姿が見たくて、駆琉はプールに急いだ。
噴水がある大きな広場を挟んで図書館の真向かい。体育館やスポーツジムが入った複合施設の1階に、プールはあった。50メートルを泳げる大きなプールで、コースの数も多い。水深が2メートルもあるらしいそのプールは、その深さゆえか小学生くらいの子どもの姿はなかった。ダイエット目的で歩いている人もおらず、ただただ泳ぎ続けている人ばかりが目立つ。
ガラス張りのプールを見渡し、駆琉は彩花を探した。ちょうど駆琉がいるところは泳ぎきったところだったらしく、皆が次々とあがってくる。スイマー達は訝しげに駆琉を見たが、駆琉は気にしないふりをした。
プールサイドに上がってくる人を見つめても、彩花はいない。もしかしてもうあがってしまったのだろうか。
『た、ち、つ、て、と』
頭の中に声が落ちてくる。
ゆっくり、はっきり。彼女は呪文を唱えて、自分の気持ちを落ち着かせようとしている。彼女はきっと目をつぶっている、と駆琉は思った。何故かわからないが、絶対にそうだという確信があった。
『な、に、ぬ、ね、の』
深く深く呼吸をして、心臓と息を整えて。
彼女の血が、身体中を駆け巡る血が、冷たくなっていくのを駆琉は感じた。
『ドキドキすることを考えよう』
彼女は言う。
まるで駆琉の耳元で囁いているかのようだった。彼女が吐き出した息さえ、見えるようだった。
『お、おやすみをいった後の毛布の中』
『え、英語を話せるようになること』
『う、歌を聞くこと』
『い、犬を撫でること』
カウントアップだ。
落ち着いていたはずの心臓が、それに合わせて大きく鳴る。やかましい。
1つ息を吸って、彼女は目を開けた。
『あ、安西 彩花の30秒後』
彼女は、運命の人は、安西 彩花は、
その瞬間にスタートを切った。
水をかきわけ、大きく腕を回し、息を吸い込んで。水飛沫があがる、真っ白な空白が駆琉の頭の中に広がる。
駆琉の心臓が痛いくらいに鼓動を打った。彩花が近づいてくる。自分に向かって泳いでくる。クロールで泳ぐ彼女は、呼吸を忘れてしまうくらい美しかった。ほんの30秒にも満たないことのはずなのに、永遠に感じた。
真っ白で、静かで、何も考えなくても良い。何も考えられない、そんな世界がそこにあった。
『ダメだ』
けれどその世界は、実にあっさりと壊された。