どうしてほしいの、この僕に
 私は怒りに任せて洗面所のドアをバンと閉じた。

 しかし私は何に対して怒っていたのだろうか。
 翌朝、マナーや所作の勉強をするため、姉とともに講師の待つ会場へ電車で向かっている。ドラマの役作りになれば、と姉がセッティングしてくれたのだ。
 吊革につかまって揺れをやり過ごしながら、昨晩のやり取りについてぼんやり考えていたが、なぜあんなふうになってしまったのか、さっぱりわからない。
「ね、お姉ちゃん、私の会社にいる友広って人のこと、知っている?」
「ん? 友広? 知らないわよ。誰なの?」
 姉の表情をじろじろと遠慮なく観察したが、きょとんとした顔に嘘偽りはなさそうだ。
 ——これは本当に知らないな。
 ということは姉と高木さんの間も常に情報が共有されているわけではないのか。恋人同士でもそうなのかと思うと少しホッとする。
「昨日高木さんがその人のことをあやしんでいたみたいだから気になったの」
「未莉の知り合い?」
「あ、うん、会社で向かいの席だった人」
「へぇ。男性?」
「うん。新入社員でなかなかイケメンだから人気あったよ」
 姉は興味なさそうに「ふーん」と返事をした。自分の知らないことを高木さんが知っていてもそれほど気にならないらしい。
「それより昨日ディレクターと脚本家に会ったんでしょ?」
 そういえばそんなこともあったな。思い返せば昨日は濃い1日だった。
「ていうか、お姉ちゃん、どうして来てくれなかったの?」
 姉が私のマネージャーになってくれるのはありがたいが、肝心なときにいないのは困る。
「あーごめんね。昨日海外からお客様が来ていて、どうしても抜けられなかったのよ」
「『向こう』って世界進出の話? 誰が最初に進出するの?」
「それは企業秘密よ」
 姉は艶のある美しい笑顔を見せた。
 なるほど、世界進出へ注力している今、それ以外の些細な出来事には興味関心がないらしい。
 ——ん? 逆に言えば、昨晩私が優輝に腹を立てたのは、私の興味関心がそこにあるから、ということか?
 胸がドキッと鳴り、背筋に寒気を感じる。
 結局、優輝とはあれ以来ひとことも口を利いていない。
 ——いやいや、早まるな、私。あれはただ単に売り言葉に買い言葉というヤツで、私が優輝を気にしているからではないのだよ。
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