どうしてほしいの、この僕に

#35 君が知らない僕のことなど(後編)

 彼女の名前を知ってから、ひそかに俺は未莉の情報を収集し始めた。
 未莉の姉は海外でも活躍する有名なモデルだ。その妹、未莉も小学生の頃から容姿が優れていることで地元では目立つ存在だったらしい。
 彼女の実家は市内では大手の運送会社で、箱入り娘の未莉は中学からお嬢様学校と呼ばれる女子校へ進学した。通学途中で彼女を見かけた男子高校生らの間ではかわいい女の子がいると話題になり、最初のうちはなんとか仲良くなろうと話しかける勇者もいたようだ。
 しかし未莉は話しかけられた途端に警戒心をあらわにし、短く会話を切り上げ、それ以上話しかけることを許さないオーラを出す。犠牲者は後を絶たなかったが、話しかけても視線すら合わせてもらえないという噂はあっという間に広がり、今では挑戦する者もいないらしい。
「ということは、あれは奇跡か?」
 俺は未莉と交わした会話を思い出し、ひとりごとをつぶやいた。
「夢……じゃないよな?」
 彼女に差し出した右手を見つめる。覚えている、華奢な指の感覚。握ったのは夢じゃない。
 すらりと伸びた形のよい脚。
 利発そうなまなざし。
 淡いシャンプーのにおい。
 それに彼女を轢いた車のナンバーもまだ覚えている。現実に起こった出来事に間違いない。

 ――俺は無視されなかった。それどころか未莉は俺にいろんな話をしてくれた。

 その事実は俺の自尊心をこれでもかとくすぐる。

「どうすれば……」

 ――また会える?

 いや、何を考えているんだ、俺は。
 暴走しそうな欲望を抑え込もうと、頭を抱える。胸の奥にこれまで感じたことのない激しい渇望を覚えて身震いした。

 ――なんだ、これ?

 自分の中に眠っていた何かが目を覚まし、奥のほうで突然吠えたのだ。体のどこかに俺の意志とは無関係に動きまわる何かがいる。そう自覚した途端、カッと全身が熱くなった。
 まるで獣だ。
 これが本能と呼ばれるものだとしたら、ヤツは何をやらかすかわからない。世の中には恋愛関係のもつれた事件が溢れているが、人間ひとりひとりがこんな猛獣を自らの内に飼っているのならさもありなんと、ぞっとする。
 それから俺は自分の中に頑丈な檻を構築することに専念した。
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