どうしてほしいの、この僕に
 どういう意味かと顔を上げる。優輝は少し怒ったように唇を固く結んでいた。
「キス。他の男とするな」
「い、いや、あの……なんで?」
「なんだよ。他の男にもこういうことできるのか」
「ちがっ、そもそもキスなんてはじめてだし、よくわからないし、他の男なんているわけないし!」
 ほぉ、とまったく心のこもっていない相槌が聞こえた。
「ファーストキスの感想が『よくわからない』とは、ね」
「だからそうじゃなくて!」
 握ったこぶしをシーツに叩きつけるようにする。さっきの甘いムードはどこへ消えたんだ、と腹立たしかったのだ。
 こぶしを振り下ろした腕が不意に前方へ引っ張られ、私は優輝の胸に倒れ込んだ。
「じゃあ今から未莉は俺の恋人な」
 いったいどういう脈絡でそのセリフが出てきたのだろう。驚いて息がとまる。嬉しいけど、突然すぎて俄かには信じられない。
「『な』って、そんないきなり……こ、こいびと……!?」
「それ以外だと執事とお嬢様か、ご主人様とメイド、あとは……」
「こ、恋人でお願いします!」
 ほとんど勢いで返事をしてから、なんだかとんでもないことになっていると気がついた。気がつくのが遅すぎると自分でも思うけど、よく考える暇がないんだもの。それに優輝の腕の中にいると、心臓がうるさく鳴ってよく考えられるわけがない。
 でも、恋人って、恋人って……えええっ!?
「ただし、ここにいるとき限定。外に出たら俺と未莉は他人だから」
「も、もちろんです。優輝のファンに申し訳ないです」
 優輝がクスクスと笑い出した。
「未莉っておもしろいよな。俺、相当ずるいこと言っているのに『なにそれ』って怒んないの?」
 そっか。外で他人のふりをするのを『ずるい』と思う人もいるんだ。
 私はむしろありがたいと思ってしまう。だって私が優輝のただの1ファンだったら、恋人がいるなんて認めたくないもの。明日香さんとの噂だって信じたくなかったし。
 あれ、そういえば、どうして私は優輝と明日香さんの噂に苛立っていたんだろう。
 優輝のことは好きだけど、それはあくまでテレビの中にいるかっこいい人だから、だったはず。憧れの男性のひとりで、決して手の届かない人だから、だったはず。
 なのに今、私は——。
 意識した途端、目の前で何かが弾けたような気がして、瞬きを繰り返す。
「黙っているとまたキスするぞ」
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