伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
戸締まりをして店を後にし、メイン通りに出ると、そこで乗り合い馬車を見付けて乗り込んだ。

車窓から、流れていく街並みの景色を眺める。

王立図書館、中央郵便局、運河に架かる大橋、そして、街のシンボルでもある時計塔……。

あ、あれは、美味しい、って評判の最近出来たお菓子屋さん……。

いつか休みの時に行ってみたいな、なんてことを考えながら、馬車に揺られていると、目的地――貴族の居住区域に近い停車場に到着した。

馬車を降りると、通りのガス灯にちらほらと明かりが点いている。

ここからは徒歩だ。辻馬車を使えば少しは楽なのだが、少しでも節約したいのが現状。

クレアは夕闇が迫る前に、屋敷への道を急いだ。



しばらく歩き続けて、大きな屋敷の前にたどり着いた。

アディンセル伯爵邸--ここが今の彼女の住まいだ。

門を抜けると、正面玄関へは向かわずに、裏側の使用人達の使う出入口へ回る。

そのまま静かに階段を上がり、屋敷の端、北側の部屋に入った。

明かりを灯すと同時に、部屋の様子が目に映る。

カーテンに覆われた窓、一人分の食事が十分並ぶテーブルと椅子、幅の広いベッド。

クレアがずっと母と二人暮らしをしていた部屋に比べれば、造りも家具も素材も、いくぶん上質だが、日中でもあまり光が入らない彼女の部屋は、気候の穏やかなこの季節でも、何だかとても空気が冷たく感じられた。

無言のまま、普段着用の質素な服に着替えていると、ドアのノックと共に、メイドが一人、入ってきた。

「お嬢様、お帰りなさいませ」

「……ただいま」

クレアは返事をした。メイドが呼んだ、『お嬢様』とは……他でもない、彼女のことだから。

もちろん、普通のお嬢様ではない。

第一、貴族令嬢は働いたりしない。



彼女は一年前、母の死に伴い、実父であるアディンセル伯爵に引き取られた、庶民出身者なのだ。



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