伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
ハッとして一斉に、振り向く。そして、声の主の姿を認識した瞬間、クレアを除く全員の体に緊張が走った。

艶のある白髪を優雅に結い、上品な群青色のドレスに身を包んだ老夫人が、玄関入り口に立っていた。

「……レディ・シルビア……」

誰かの呟きが聞こえる。クレアも驚いて、自分が今、どんな目に遭っているか忘れてしまった。

「その手をお離しなさい」

高齢とは思えないほど張りのある、威厳に満ちた声が、玄関ホールに響いた。

老夫人--シルビア・コールドウィンは、ゆっくりとクレア達の方へ歩を進めてくる。

「聞こえなかったの? その手を離しなさいと言ったのですよ」

シルビアからの鋭い視線を受け、クレアの髪を掴んでいた男は、弾かれたように慌ててその手を離した。不自然な格好から解放されて、思わず体の力が抜けそうになったクレアの肩を、子爵夫人が支える。

「伯爵が不在と聞いて、気になって来てみたものの……」

シルビアはゆっくりと男達の方を向いた。

「不法侵入者がいるとは、思ってもいませんでしたよ」

「……い、いえ、違います、我々は決してそのような者では……」

男の一人が、顔色を変えながら焦ったように弁明しようとしたが、

「お黙りなさい」

と、シルビアに即座に返され、口を閉ざした。

「他人の家の事情に干渉すまいと、しばらく様子を見ていたけれど、当主が亡くなったと勝手に決めつけて、この家の財産目当てであなた方がやって来たことは、誰の目にも明らかですよ。それに、まあ、こんな非力な少女にまで手を上げようとするとは……それが紳士のやることですか! 恥を知りなさい!」

「……っ」

シルビアにピシャリと一喝され、男達は言葉を失った。

「それと、その子がここにいる理由は、単に婚約者だからということではありません。当主の留守の間、この屋敷を預かっているという大切な役を担っています。今後、彼女の許可なく、勝手に敷地内に足を踏み入れてはなりません」

「し、しかし、レディ・シルビア……」

「この私、シルビア・コールドウィンが許しません。もし、忠告を無視して蛮行に及んだ場合は、どうなるか分かりますね」

「……」

揺るぎないシルビアの発言に、男達は悔しそうに顔を歪めたが、やがて踵を返すと、無言で玄関から出ていった。


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