伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
「あの、お言葉の意味が分からないのですが」

「なぜ? 言った通りだよ」

だから、それが分からないんです……!

「君が俺を選んでくれて嬉しいよ」

「えっ」

クレアは何だか怖くなった。自分が蒔いた種とはいえ、今、抗うことが難しい波に飲み込まれようとしているのではないだろうか。

「そんなに怯えないで。君を守りたいんだ」

「だけど、伯爵様……」

「ライルだ。呼んでみて」

「……ライル、様……」

気安く名前を呼んでいいものかとためらっていたので、呟くような小さな声になってしまった。

名前を呼んだだけなのに、ぐっと距離が縮まった気がして、恥ずかしくなり、ごまかすように目を泳がせながら瞬きを繰り返す。

そんな彼女を見て、ライルは満足げに微笑む。

その瞳に吸い込まれそうになって、クレアは慌てて視線を床に向けた。

……いけない、流されるところだった……。何がどうなっているのか、ちゃんと聞かなきゃ……!

クレアは深呼吸すると、決意を込めた目でライルを見上げる。

「ライル様、ちゃんとご説明を……」

言葉は途中で途切れた。

ライルの顔が近付いた瞬間、クレアの唇にふわっとした柔らかい感触が落ちてきたからだ。




え……?

優しい口付け。

ほんの一瞬だったが、それは、クレアの思考を停止させるのに充分な効果を発揮した。

ライルはそっと唇を離すと、硬直しているクレアの耳元で、低く甘くささやく。

「続きは今度。迎えに行くから待ってて」

微笑みを残し、そのまま店を後にした。




クレアはしばらく動けなかった。

昨日は手の甲に、そして今日は唇に直接……。

頭を何度も振り、ドクドクとうるさいくらいに鳴る心臓を無理やり落ち着かせると、止まっていた思考も徐々に回り出す。

……上手くはぐらかされた……。

クレアは慌てて通りに飛び出した。しかし、青年の姿はもうどこにも見えなかった。



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