クールな御曹司と愛され政略結婚
「帰ろ」

「…ん」

「嬉しかったよ、さっきの」



いきなり発された言葉だったけれど、一生忘れないだろう。

灯は恥ずかしそうに唇を噛んで、とても私のほうなんて見られないみたいで、うつむいて靴を履きながら「そうか」と言った。



そこからは、不眠不休という言葉がふさわしい日々だった。

なにせ相手はゼロなのだ。

どんな手で来るのか、まったく読めない。

こちらは持てるカードを使い倒し、最善に最善を重ねて手を尽くすだけ。


柘植さんの、隠岐くんの作品を尊重しつつ次々新しい視点を生み出すパワーはすさまじく、私たちはそれに引っ張られるように、再提案の日に向けて進んだ。

プレゼンに出かける直前まで、資料のちょっとした言い回しにも推敲を重ね、わずかな調整を続け、いよいよそのときがやってきた。



「以上です」



灯が最後を締めくくったとき、クライアントの会議室は、しんと静まり返った。

声をかけるのがためらわれるほどの集中力を見せていた灯が、反応を促すように聴衆に視線を走らせる。

着座していた私は、緊張のあまり机の下で手を握りしめた。


灯のプレゼンは神がかっていたと言っていいほどいい出来だった。

だけどコンペは、相手がいる。

どの部分で相手と比較されているのかすら知らされず、私たちは土俵に上がっているのだ。



「すばらしいです、今回の作品は、ビーコンさんにお任せします」



先方の宣伝部長が、きっぱりとそう言った。

私たちはちょっと戸惑い、灯も遠慮がちに口を開く。



「ありがとうございます、ですが、ゼロさんのプレゼンがこの後あるとお聞きしていたのは…」

「あちらからは先日、棄権のご連絡をいただきました」

「え?」
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