初恋
第三十九話 罪

 深雪の手術は困難を極めたが、後遺症もなく無事成功を収めた。右目の視力も回復するとのことで、深雪も大喜びしている。
 しかし、自分に残された日数を考えると、修吾は諸手を上げて喜べない。深雪の手術が成功して数日後、沙織は修吾の前に離婚届けを差し出した。
「俺のこと、軽蔑しているのか」
「ううん……」
「嫌いになったのか?」
「いえ、愛してるわ」
「じゃあ、コレはなんのつもりだ」
「愛しているから、別れるの」
 困惑する修吾に沙織は穏やかな表情で口を開く。
「私と一緒にいると、修吾さんは嫌でもお母さんと顔を付き合わせることになる。お母さんの想いも修吾さんの想いも絶対に叶わない。そんな二人が頻繁に顔を合わせるの、辛いでしょ? だから別れてあげるの。もちろん、お母さんには二度と会わないって約束でね」
「それっておまえ自身の復讐も兼ねてるだろ?」
「どうかしら? でも一つだけ分かったことがある。修吾さんの心は私と結婚する前からずっと、お母さんにあったってこと。私はとんだピエロだった……」
 沙織のセリフで修吾は瞬時に頬をビンタする。
「くだらないことを言うな」
 沙織は一瞬びっくりした顔をするが、顔色を変えて修吾を向き直す。
「じゃあ聞くけど、私との結婚で、お母さんとの関係を全く考えなかった? お母さんが居たから私と結婚したかったんじゃないの?」
「本気で殴られたいのか?」
「殴りたいなら殴って。でも質問にはちゃんと答えて」
 毅然とした態度に修吾も気圧される。
「全く考えてない。当たり前だろ。当時は深雪さんの気持ちも知らなかったし、むしろ反感を持っていたからな」
「じゃあ今は?」
 沙織の鋭い質問に修吾は口ごもる。
「即答できないってことは決まりだよ。修吾さんの心はお母さんにある。もう私じゃどうすることもできない」
 修吾自身も心の中にある深雪への想いを認識しており反論できない。
「私は今でも修吾さんを愛してるよ。だけど、私に対して心が無いと分かっている男に抱かれる程、私のプライドは低くない。復讐って言うのならそれでもいい。とにかく、お母さんやお父さんの為にも、修吾さんの為にも、私の為にも別れた方がいい。今のままじゃ、誰も幸せになれないから」
 修吾は病室の廊下から見える公園を眺めつつ、沙織から告げられたことを振り返る。離婚に際し、沙織の出した条件は三つ。
 一つ目は、退院までの間、二人きりで深雪と会わないこと。二つ目は、退院の日に離婚届けを提出すること。もちろん離婚の話は離婚するまで誰にも話さない。三つ目は、離婚後結城家とは一切関わらないこと。
 沙織としては、とにかく修吾と深雪の中を別ちたいらしい。傷つけた代償と覚悟をしていたとはいえ、修吾の気は重い。
(あのとき深雪さんを追ったことに後悔はしていない。想いを直接告げることはできなかったが、深雪さんも俺の気持ちは理解してくれていた、それで十分だ……)
 退院するまでの短い間が、深雪に会える最後の期間だと考えると胸が苦しくなる。病室から沙織が出て来るのを確認すると、修吾はエレベーターホールに足を向ける。
 離婚の話を決めてからは、病室内まで沙織に付き添い深雪に挨拶を交わすと、すぐに退室するというパターンになっている。深雪もその不自然な行動に気付いてはいるが、敢えて触れないようだ。
「退院の日、決まったから」
 エレベーターを待つ修吾に沙織は話し掛ける。
「明後日のお昼。修吾さん仕事中だし、付き添いは私だけでいい。その後、市役所に届け出してくる。その日は一応マンションに帰るけど、次の日には実家に帰るわ」
 淡々と予定を語る沙織に、もはや愛情は存在しない。修吾自身、沙織と居て心が乾いていくのを感じているが、本人はそれ以上の感覚を抱いているに違いない。到着したエレベーターに乗り込みながら、修吾は自分の背負う償いの深さを改めて感じていた――――


――翌朝、出勤途中の忙しい時間帯に、見慣れない番号からの着信が入る。
(沙織でもないし、仕事関係でもなさそうだ。誰だ?)
 訝しがりながら路肩に駐車し通話ボタンを押す。
「もしもし、修吾さん?」
(この声は……)
「深雪、さん?」
 深雪と沙織の声は親娘らしく良く似ており、修吾は少し勘繰る。
「そう、深雪。今電話大丈夫?」
「ええ」
 修吾は内心ドキドキしながら応える。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「はい、なんですか?」
「修吾さんが私を避けている理由は何?」
(核心ついてきたな。適当な嘘でごまかせる相手ではないんだが)
「沙織との時間を優先させてるだけですよ」
 修吾の回答に深雪はしばらく沈黙する。しかし、ゆっくりとした口調ではっきりと言う。
「沙織が私たちに嫉妬しているから、じゃないの?」
(やっぱ気付かない訳ないよな……)
 修吾は応えようがなく沈黙する。
「沙織が毎日お見舞いに来るのは、修吾さんと私を会わせないため。私を監視する意味もある。違う?」
 的確な質問に回答のしようもなく沈黙を続ける修吾に深雪は溜め息を吐く。
「ごめんなさい。私があんな手紙を書いたばかりに、こんなことになったのね」
 深雪のセリフに修吾は否定する。
「深雪さんは間違ってないよ。あの手紙って、深雪さんの本当に素直な気持ちだったんでしょ? だったら謝ることなんて……」
「それは違うわ。私の気持ちは私の心の問題だし、それ自体に偽りも後悔もない。問題はそれを形にして、あなたたちの間に亀裂を生んでしまったことなのよ。その原因を作ったのが紛れもなく私。私の責任は重い」
 深雪の沈痛な声に修吾は強く反論する。
「あの手紙を見せたのは沙織だ。それに深雪さんだって誰かに見せようとして書いたわけじゃない。全て自分が悪いって言い方は間違ってる。お互いが直接告白した訳でもあるまいし」
 修吾は言った傍から、告白という単語を出したことに後悔し黙り込む。
(気まずいな……)
 深雪も沈黙していたが、ぽつりと吐く。
「ありがとう……」
 深雪からの感謝の言葉に、修吾の体温は一気に上昇する。
(今くらいしか言うチャンスはない!)
「あのさ、深雪さん」
「はい」
「俺さ、あ、明日、退院には付き添えないけど、明後日くらい自宅に退院祝い持ってくから。楽しみにしといてよ」
 心に留めていた想いは表にできず、修吾はありきたりのセリフを吐く。深雪も待っていた言葉でなかったようで、少しの沈黙の後に言葉を返す。
「……分かった。楽しみに待ってる」
「じゃ、仕事あるから」
「うん、忙しいときにわざわざごめんなさい。また明後日ね」
 陽気な声で深雪はあっさり通話を切る。
(言えるわけがない。今の俺に愛を語る資格なんてないんだ……)
 自身の犯した行為と深雪への想いとの狭間で修吾は苦悩していた――――


――二日後の早朝、前日に辞表を提出しマンションの家財道具等を全て処分すると、綺麗な花束を深雪の家の玄関に立て掛けた。見慣れたその佇まいと、その中で就寝しているであろう深雪を想い、切ない気持ちが心に広がる。
(ありがとう深雪さん、そして、すまない沙織。約束通り俺はもう君達とは関わらない。一生この罪を背負い一人で生きて行く。さようなら……)
 運転席に乗り込むとハンドルを強く握り、アクセルを強く踏み込み住み慣れた街を後にした。

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