初恋
第四十話 離婚

 夕方、バイトから帰宅した沙織はキッチンに直行する。キッチンからは沙織の好物であるポテトサラダの作る匂いが流れてきた。
「ただいま、お母さん。今日も腹ぺこだー!」
 いつものように明るく突入すると、元気のない深雪の姿が目に入る。その異変に沙織もすぐに気がつく。
「お母さん? 体調良くない?」
 沙織の問いに、深雪はコンロの火を消し近付いてくる。
「沙織、あなたにお話しがあるの」
 深雪の真剣な顔に沙織の頭には修吾のことが瞬時にひらめくが敢えて言わない。
「なに?」
 キッチンテーブルのイスを引きながら沙織は問う。深雪もその正面に座る。
「修吾さんのこと、なんだけど……」
「修吾の話は禁止。先週離婚して帰ってきたとき言ったよね?」
「分かってるわ」
「じゃ、話はおしまい」
「沙織は気にならないの?」
「ならない」
 沙織は真顔で言い切る。
「完全に私たちの前から消えてしまったのよ? 心配じゃないの?」
 深雪のこのセリフに、沙織はカチンとくる。
「私たち? 勝手に私を入れないで。心配してるのはお母さんだけ。私もお父さんも修吾のことなんて頭にない。って言うかお母さんマンション行ったでしょ?」
「それは……」
「今、完全に消えたって言ったよね? それって職場だけじゃなく、住んでたマンションからも居なくなったってことでしょ? 行って確かめないと分からないことだもんね。お母さん、一体どうしたいわけ?」
 沙織の容赦ない質問に深雪は応えられない。
「昼ドラみたいに、私やお父さんを捨てて修吾追ってみる? 結婚だってできないし、子供だって産めないお母さんを修吾が受け入れると思う? もう少し現実見た方がいいんじゃないの?」
 思ってもみない沙織からの強烈な侮蔑に、深雪は顔を歪める。
「それに、未来ある修吾にお母さんが近付いて、良いことなんて何もない。修吾の幸せを願うのなら、もう修吾と関わらないことが一番だよ。お母さん、今でも十分幸せでしょ? 贅沢だよ、なんでもかんでも手に入れようなんて」
 まくし立てられるように話す沙織に深雪は何も言えない。
「みんなさ、大なり小なり、そういう想い抱えて生きてるんだよ。初恋の相手が今どうしてるのかなぁとか思ったり、結婚したあと旦那以上の素敵な人に出会ったり。その度に胸をときめかせたり、苦しくなるかもしれないけど、その想いを胸に留めておくのが常識でしょ? 初恋って叶わないし、届かないからこそ綺麗だし尊い。お母さんのやってることは自分勝手な恋愛ごっこだよ」
 沙織の話を聞いているうちに深雪の頬からはポタポタと涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい、沙織の言う通り。私がいけなかった。全部私が悪い……」
「そう思うんだったら、なんで修吾の話なんか」
「分かってるの。でも理屈じゃないのよ。修吾さんのことは小さな頃から知ってるぶん、家族みたいな気持ちになる。子供のようで、弟のようで、それ以上の気持ちも……。子供の頃、家族を失った修吾さんの辛さをよく知っているから、余計強く想ってしまうのかもしれない。だけど、沙織の言うように、私が修吾さんの人生に介入することで不幸にしてしまうのなら、私は二度と会うべきではない……」
「じゃ、もう二度と修吾の話はしないで。もちろん会うことも」
「約束するわ」
「約束だよ? じゃあ今日を以って修吾の話は終わり。あと、さっきはちょっと言い過ぎた。子供がどうとか、ごめんなさい。フォローになってないかもしれないけど、もしお母さんと修吾が親戚じゃなかったら、そして、私と出会ってなかったら、きっと二人を応援してた。これは女としてね。娘の私はもちろん大反対だけど」
「沙織……」
「それに手紙を修吾に見せた私にも落ち度はある。見せたのは純粋に同じ女として、お母さんの本当の気持ちを修吾に知って貰いたかったからなの。修吾なら見ても私を選んでくれるって打算もあったけどね。でも、実際は違った。明言しないまでも、修吾は心の中でお母さんを選んでた」
 深雪自身もそれを暗に理解しており何も言えない。反対に沙織は我慢していた想いを解放するかのように気持ちを放つ。
「私だって修吾を愛する気持ちに自信はあったよ。だけど、修吾のお母さんに対する想いは、私にはどうすることもできなかった。すごく重くてすごく純粋な想いが、私の想いをくじいた。そう感じた時、修吾もお母さんも憎くなって、二人を遠ざけるように仕向けたの。自分自身、あさましいマネしてるって分かってたけど止められなかった。一番辛いのが誰なのか、分かってるつもりだよ。だけど、私はもちろんお父さんの前でも、もう二度と修吾の話はしないで。家族みんなが傷ついちゃうもん……」
 沙織の心根にある優しさに深雪の瞳からは涙が止まらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい沙織。約束、絶対守るから……」
「お願いします」
 深々と頭を下げる沙織に深雪は苦笑する。その笑顔に沙織の表情もつられて緩んでいた。

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