初恋
第四十九話 遺書(深雪編)

 右目の視界がぼやけ始めたのは、沙織が社会人として歩み出した頃で、当時は単なる疲労程度に考えていた。時が流れ、沙織が恋人として修吾を連れて来た頃には、脳腫瘍と子宮筋腫による痛みが顕著になっていた。
 しかし、沙織と修吾の結婚を巡り対立するさなか、沙織の傷ついた心に触れ病院に行く気にもなれず、ひたすらに堪える日々を送る。
 結婚式を無事に終えた数日後、沙織の居なくなった静かさを感じつつ、深雪はペンを取る。式中も何度か厳しい痛みもあったが、自分自身の最後の大仕事と決めてやり遂げた。
(私に残された日数はきっと少ない。直接言えないまでも、せめて私の死後、今から書く遺書を見てもらって、私の気持ちを知って貰いたい。裏切りたくて裏切ったのではなかったんだと。そして、本当に愛していたのは貴方だったのだと……)
 修吾との思い出を回顧しながら、深雪は溢れ出る想いをしたため始めた――――


――数ヶ月後、意識を取り戻すと、真司と沙織の言い争う声が聞こえる。内容から察するに、ここは病院で手術の成功率はもかなり低いということらしい。
(私の生きる確率が知りたい……)
「で、成功する確率はいくつなの?」
 顔だけ向けて深雪は真司に問う。沙織は驚いた顔をして近寄る。
「お母さん!」
「聞こえてたわ。それに自分自身のことだもの、ある程度わかるわ」
 深雪はベッドから起き上がると笑顔を見せる。
「手術の成功率はいくつ? お医者様から聞いてるんでしょ?」
 穏やかな表情で聞く深雪に答えざるを得ない。
「二割くらいだそうだ」
「なによ。なかなかの高確率じゃない。余裕ね余裕」
 わざとおどける深雪を見て、沙織は怒りはじめる。
「何が余裕よ! 何で病気のこと隠してたの!」
 沙織は目に涙を溜めながら深雪を睨む。
「ごめんなさい。でも、心配かけさせたくなかったの……」
「いつから黙ってたの?」
「あなた達が結婚する前くらい……」
「バカ、何でもっと早く……」
 沙織は目頭を押さえまま身体を震わす。
「ごめんね沙織。でもお母さんの気持ちも分かって。結婚したてのあなた達に、どうして言えましょうか。私はあなた達が幸せならそれでいいの。子供の幸せの為ならどんな犠牲も払う。それが親というものなの」
 深雪の言葉に沙織は声を押し殺して泣く。修吾を見ると泣いてはいないものの、顔色が悪く心配そうにこちらを見ている。
(修吾君、私を心配してくれてる。申し訳ない。けど、ちょっと嬉しい……)
 立ち尽くしたまま動かない修吾の姿を、深雪は複雑な思いで見つめていた――――


――翌日、ぼやける視界で外の景色を眺めていると、入院中必要な日用品を携えた沙織が現れる。
「体調はどう? 大丈夫?」
「大丈夫よ。ごめんなさいね、こんな慌ただしいことになっちゃって」
「なに言ってんの。私のことなんて気にしてる場合じゃないでしょ? もっと自分自身のこと大切にしなきゃ」
「ありがとう」
 着替えや洗面道具をバッグから取り出す沙織を見ていると、昨日と違いやつれているように見える。
「沙織、何かあったの?」
「えっ?」
「何か大変な事があったって顔に書いてあるわ。私の病気のこと以外で何かあったの?」
 沙織は驚いた表情を見せた後、ためらいがちに封筒を目の前に差し出す。
(やっぱり……)
 予期していたこととは言え、深雪もショックの色を隠せない。
「中の遺書を読んだのね?」
 沙織は黙ったまま頷く。
「そう。お母さんのこと軽蔑したでしょ?」
「しないよ。するわけないでしょ。でも、正直、何て言っていいか分からない」
 ベッドの横に立ったまま、沙織は辛そうに床を見つめる。
「椅子に座りなさい。ちゃんと話したいから」
 深雪に促され沙織はパイプ椅子を取り出し座る。
「まず、分かって貰おうとかは思ってないから。ただ、お母さんがどんな考えで生きて、これまで過ごしてきたのか、それを話すわね」
 深雪は修吾と初めて会ったときからの別れ、数年後に再開し恋人になり、再び別れるところまで話す。沙織は終始無言のまま耳を傾けている。
「勘違いしてもらいたくないから明言しておくけど、沙織を産んだことやお父さんとの結婚は、修吾さんとの件が済んだ後のことだから。別れるために利用したとかじゃなく、ちゃんと愛し合っての結果だから、そこは分かってちょうだい」
「うん……」
「結婚以降は一切会ってないし話してもいない。沙織が連れて来た時が二十年ぶりの再開だったの」
「再開してから二人でこっそり会ったりしてない?」
「してないわ。怒るわよ? だいたい当時の沙織は二十四時間べったり修吾さんと居たでしょ?」
「あっ、そっか。うん……」
「今でもラブラブみたいだし、お母さんは嬉しいわよ」
「私に修吾さんを取られて憎くない?」
「憎くない。手紙にも書いたけど、あなた達の幸せがお母さんの幸せでもあるんだから」
「修吾さんのこと、愛してる?」
(愛してる、か……)
 深雪は少し間を置いてからきっぱり答える。
「ごめんなさい。正直、愛してるわ」
「そこはそうだよね。手紙にも書いてあるし」
 正直に答える深雪を見て沙織は苦笑する。
「母娘揃って同じ男性を好きになっちゃったってことだよね? お母さんの遺伝子をしっかり引き継いでるって実感したわ」
「本当、そうね」
「修吾さんは手紙の内容、知らないんだよね?」
「もちろん知らないわ。きっとまだ二十年前のこと恨んでると思う」
「それはないよ」
 沙織は即答する。
「お母さんと同じで、修吾さんはお母さんの幸せだけを祈って身を引いたんだよ? 絶対恨んでない」
(確かに……)
「いずれにせよ、その手紙は絶対に修吾さんに見せちゃだめよ? この意味、分かるわよね?」
 怖いくらい真剣な表情の深雪を見て、沙織は緊張しながら頷く。
「いい子ね。それともう一つお願い。その手紙は今日帰ったら必ず燃やして。修吾さんは元より、お父さんにも見つからないようにね。お母さんが生きている間、沙織に見られてしまった時点で、その手紙の意味は無くしたわ」
 手紙を閉じて溜め息を吐く沙織に、深雪は優しく語りかける。
「聞きたいことがあるなら今のうちにどうぞ。チャンスは三回まで」
「なんで回数制限設けるかな~」
 深雪の冗談を聞いて沙織は笑顔になる。
「じゃあ、三回じゃなく一つだけいい?」
「どうぞ」
「本当に直接、気持ち伝えなくていいの?」
「いいもなにも、既婚男性、しかも娘の旦那に対して私が言えることなんて何もないわ」
「私が言っても良いよって言っても?」
「考えは変わらないわ。想いは想いで確かに心にあるけど、伝える伝えないとは別の話よ」
 強い決意がこもるその横顔から沙織は何も言えず、ただ黙って手紙を眺めていた。

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