【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
 ――大洪水の後のように、地形を大きく変えてしまうほどの大量の土石流が遥か遠くまで深く流れ込んでいた。

 数時間前の惨劇がまるで幻のように輝かしい朝日が昇るなか、最上流の女神の水源までやってきた青年にまっとうな意識はもうない。
 すべてを飲み込む竜巻(トルネード)のような濁流が発生したあの中心に居たにも関わらず、傷のひとつも負っていない青年の衣は数えきれないほどの人間の返り血で深紅に染まっている。

 真っ先に剣で貫いた少年の体には自身が贈った水守り一族の外套が不快に纏わりつき、今まさに人の道を外れようとする青年の行動を阻止するかのような足掻きを見せた。
 だが、怒りに任せた青年の一撃はブレることなく少年の急所を貫き、少年が倒れる次の瞬間には後方の武装した男たちへと狙いを定めて地を蹴っていた。

 ――穏やかで心美しき水守りの一族――。

 誰がこの青年の能力を予想できただろう。
 水の女神の化身と呼ばれ、人ならざる力を宿したこの美しき青年の能力は人々を助けるもの……と、誰もが思っていたに違いない。
 ……しかしそれは大きな間違いだった。

 青年の怒りは水の女神が人の愚かさに悲観し、嘆くようにすべてを飲み込んでいく。代々の水守り一族が守り、愛してきた街や森、繋いできた未来さえそれは厭うことなく――。 

 ――すべてが終焉を迎えたころ、青年の足元に転がっていたのは血にまみれた一族の外套と少年のものと思われる古びた書物だった。
 感情なく見下ろされた瞳と手がおもむろに文字を辿る。
 分厚い背表紙は汚れていて読めないが、中身はかろうじて無事だった。幼い文字で訳された外国の書物。そこには病を治す胡散臭い魔術や呪いを解く方法などが隙間なく書き綴られている。

 やがて後半にいくにつれ、殴り書きからページを黒で埋め尽くしてしまうほどに変化していく乱れた字は、書き手の少年の苛立ちが色濃くでている。
 さらにページを進むと破れている箇所が増え、ナイフを突き立てたような鋭利な刃物の跡が残っている。

(……なぜ……、あの悪魔のような……少年がこのようなものを…………)

『そっか、水守り様は傷を癒すことができないんだったね。でも悲観することないよ? だって、いまの水守り様の浄化の力だってたくさん人たちを救えるんだからさ!』

『僕はね、幸せになりたいんだ。それができるのは水守り様だけなんだよ』

(……まさか、……あの少年は、私を通して自分が成し得なかった"人々を救う夢を"――?)

 水守り一族の力や権力を欲している輩が今までに居なかったわけではない。
 だが、人を疑うことを善しとしない現当主。幾度となく危険にさらされたこともあったが、懐の深い彼は敵の痛みをも癒して改心させる不思議な力があった。
 
 『時に人は嘘の中に真実を隠す――。

 ――他者の心を見極めるその目と浄化の力、紛うことなく水の女神の御加護によるものだ。
 しかし、人間とは複雑な生き物である。幾ら悪人と言えど、時に人は嘘の中に真実を隠す。
 我らの力を奪おうとする輩の中には救済を求めている者も多い。
 数多の嘘を見抜くより、ひとつの真実に目を向けてやらねばならん。力を持つ者の宿命は、どれだけ他者の望む幸せを叶えてやれるかが重要なのだ。

 我が息子よ。人を疑ってはならん。裏切られることはあっても、裏切ってはならんぞ――』

 人ならざる力を持つが故に他者を疑ってかかってしまう青年の苦しみは計り知れない。
 だが、その力は一族を守るため、愛する人々を守るために生かさない手はなかった。

 (私のような力を持たない父上が咎人を改心させることができたのは、他者の幸せを願うその深い慈愛の御心が持つ力――。
 私は、皆の想いも……
あの少年の期待をも裏切ってしまったのだな……。

……父上、受け継ぐのなら私も貴方のような力がよかった……)

 恐らく少年が目指していたものは、自身が人々を救う方法だった。
 しかしそれが叶わぬと知ったときの絶望から、悪しき者たちに漬け込まれ、歪んだ願望に替えられた可能性は十分にある。

 もはや、自らの手で彼を葬ってしまったいまとなっては、真実は闇の中。

 剣を捨て、女神の水源へ足を踏み入れた青年は目を閉じながらその身を冷たい水の中へと沈めていく。
 
――息苦しさなどなかった。

 大罪を犯した青年を受け入れる水源はどこまでも優しく、まるで母親に抱かれたようにその心は穏やかだった。

 血塗られた衣が水源の力で浄化された頃、青年の姿が完全に水へと消えて……それは起こった――。

 一滴の雨が水面に降り立つように、純白の衣を纏ったひとりの少女がひらりと舞い降りた。
 触れた足の先から波紋ができると、彼女はスッと水源へと吸い込まれていく。
 
 眼下で堕ちゆく生気を失った青年を視界に捉えると、少女は長い髪をたゆたいながら降下していく。
 もはや光も届かぬ水源の底へ背を預けた青年を真っ白な輝きが包む。さらに急浮上した青年の体と意識。目を閉じてもわかる眩い輝きに彼はとうとう瞳を開いた。

(……なにが、おきている……?)

 逆光でもわかる、悲しげな瞳をした少女が自分へと手を伸ばしている。


(――やっと会えた、……私の、女神――)


 薄れゆく意識の中で、嬉しそうに口角を上げた青年はそう心の中でつぶやいた――。

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