【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
(……楽しい時間はあっという間だな……)

 木漏れ日が差し込む木陰でアオイと過ごす時間は幸福感に満ち溢れている。もう少しこの場に留まっていたいという気持ちは拭えないが、キュリオにはやらなくてはならないことがある。
 まだ眠りから覚めない幼い姫を胸に抱きながら静かに立ち上がる。腕に馴染んだ高めの体温に目を細めていると、胸元で目が覚めたらしいアオイがあたりを見回している。

「おはようアオイ。お腹はすいていないかい?」

「…………」

 頭上から語りかけてくるキュリオの声に愛らしい瞳がゆっくり上ってきて。

「んぅ……」

 なにか不満があるときのような声をもらした彼女にキュリオは首を傾げる。うつ伏せで眠っていたせいで付いてしまった寝癖もまた愛らしい。

「ふふっ、夢でも見ていたかな?」

 しっとりと汗ばんだアオイの額を指先で拭ってやりながら前髪の癖を直してやる。
 ひんやりと心地よいキュリオの手に頭突きをするようにもたれ掛かってくるアオイの顔には笑顔が浮かんでおり、眠りから覚めたばかりの潤んだ瞳は透けるように清らかでどこまでも甘い愛おしさに満ちている。
 キュリオはアオイの眦(まなじり)にそっと口付けると、柔らかな手が首元に絡みついて、ぴったりと合わさるパズルのピースのように密着したふたりの体。

(アオイの愛情の表現はどこまでも愛らしい)

「さあ、そろそろ戻る時間だ」

 小さな体を抱え直し立ち上がったキュリオは別れるのが名残惜しいとばかりにゆったりとした足取りで城へと向かう。
 雲ひとつない青空に目を細めると、眠る前のひと時に星でも眺めようかとアオイへ提案してみる。言葉は返ってこなくとも滅多なことでアオイが不満を漏らすことはなく、キュリオの勧めることをただ純粋に楽しんでくれるため、どこへでも連れて行きたくなるのだ。

「湯殿からでも星は見えるが、今日はすこし城の奥へ行ってみようか?」 
 
 キュリオの低音で優しい声が耳に届くと、嬉しそうに声を上げた彼女に別の声が重なる。

「……星を見るなら聖獣の森にいい場所がある」

「……!」

 キュリオの首元に顔を埋めていたアオイが、彼の声に突如振り返った。 
 
「今朝ぶりだなダルド。君も散策かい?」

 目の前に現れた麗しい白銀の青年へいつも通り声を掛けながらも、彼のもとへ行こうと手を伸ばすアオイに少しの寂しさが芽生える。

「…………」

「アオイ姫がキュリオと出かけたって聞いたから追いかけてきたんだ。ふたりの匂いは覚えてるから」

 表情が無に等しいダルドでさえアオイの前では柔和な顔を見せる。
 伸ばされた手に手を合わせた彼は、身を乗り出してきた赤子を受け止めると嬉しそうに抱きかかえた。
 あっという間にすり抜けてしまった愛しいぬくもりに目を閉じるキュリオ。

「……そうか。聖獣の森によい場所があるのなら、今日は早めに夕食を済ませてしまおうか」

「うん。僕はもうすることないから、このままアオイ姫と執務室へ行ってもいい?」

「…………」

 ダルドの言葉に思わず言葉を失ってしまったキュリオ。それは決して不都合があってのことではなく――……

「ああ、もちろんだ。君たちが傍に居てくれたら私も仕事が捗る」

 思いがけないダルドの申し出にキュリオに笑みが戻り足取りも軽くなる。

(……大概私も単純だな)

 他愛もない話をしているうちに王宮へと戻ってきた三人は、女官や侍女らに迎えられて上の階の執務室へと移動する。

「キュリオ様、アオイ姫様。どうぞこちらで御着替えを」

 胸元に薄っすら乾いたあとのある王の衣が何を意味しているかは誰にでもわかる。それが断じて汚らわしいわけではないが、一国の王であるキュリオが何時、如何なるときに公の場へ出向かなくてはならない場合を想定して従者は動くものである。
 さらに、アオイがここへ来る前までのキュリオも同じ考えだったため、一日に何度も着替えるのが普通だった。

 しかし。

「私は問題ない。アオイがすこし汗をかいているから風邪をひかないよう着替えさせてやってくれ」

「かしこまりました」

 優しく微笑んだ女官はダルドからアオイを受け取ると、待ち構えていた侍女らと手際よく体を拭いて新しい衣へと着替えさせる。
 いつでも眠れるような赤子の肌に優しいタオルの生地でできた柔らかな衣に包まれたアオイは、侍女らに囲まれてひとりひとりの顔を確かめるように見つめては嬉しそうに声を上げている。
 皆がアオイを中心に回っている。彼女の行動に一喜一憂し、アオイもその期待に応えるように笑顔を向ける。

「それではキュリオ様、ダルド様。私(わたくし)たちは姫様とお部屋を移動させていただきます。御用がおありでしたら――」

「いや、アオイはダルドへ任せてくれ。今後、このふたりは執務室への出入りも自由にさせるように」

 こういったキュリオ直々の許可が下りたとあらば部屋の主が居らずとも入室して構わないということになり、アオイはもちろんのこと、それだけの信頼をこの人型聖獣は充分に得ている証だった。
 王の命を受けた女官らは恭しく一礼すると、ダルドへアオイを託し部屋を出ていく。

「ありがとう、キュリオ」

「しばらく面倒を掛けるな。よろしく頼む」

 ダルドとて仕事があるため毎日のようにはいかないが、アオイの世話を任されているあのふたりもすぐ近くにいる。
 そしてなにより……

「僕はアオイ姫が好きだから面倒じゃないよ」
 
「……そうか。そう言ってくれて私も嬉しい」

 アオイを見つめる眼差しは己のそれと同じであることを何となく感じて察するキュリオ。

(……愛が心地よいものだと気づいた人間はさらなる愛を欲する……)

 愛を知らない者に最初の愛を与えた人物であれば、それはなおさらのことだ。
 ダルドにとってそれはキュリオでありアオイでもある。

(ダルドはアオイと出会ってさらに感情が豊かになった。その豊かさは彼の人生に彩りを与えるだろう)

 キュリオとてアオイの愛に触れてもっとも影響を受けたひとりだ。これから先、花開いていく彼女がどのような愛を放つかが楽しみだが、誰もが虜になってしまわぬようひっそりと温室で育てたいという願望がある。
 すると、ダルドの腕に抱かれながらもキュリオがちゃんと傍にいるか確認しているアオイと視線が絡んだ。

「私はここに居るよ」

 口角を上げて言葉をのせると、頬を染めて笑いかけてくるアオイに心があたたかくなる。
 羽ペンを手にしたまましばし愛娘を眺めていたキュリオには今日も穏やかな風が流れていた――。
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