キャラメルと月のクラゲ
そんなかわいい顔で悩んでいるから、私はほんとうの気持ちを言えなかった。
結局彼が買ったのはハート型のネックレスで、ピンクゴールドの金属に囲まれたピンクトルマリンは10月の誕生石だった。
「ほんとうに梨世は思われててうらやましいな」
ガラスのショーケースの前で一時間ほど朋弥くんが悩んだおかげでデパートを出た頃には空が夜の濃い青に包まれていたけれど辺りは街灯やネオンに照らされて明るかった。
「でも本人に言うと調子に乗るから言わないけどね」
「確かに。調子に乗って浮気とかしそうだよね」
「朋弥くん。君がそんなこと冗談でも言わないで」
「ごめん。………そうだね。僕だけでも彼女のことちゃんと受け止めてあげないとね」
「そうだよ。———気に入ってくれるといいね。大好きになってくれるといいね」
いつもよりもゆっくり歩く私達の距離は近くて遠い。
「前にさ、好きなヒトの好きなモノを好きになるかって話したじゃん」
手を伸ばせば届くはずのこの距離に、答えはあるのだろうか。
「うん。話したね」
「好きになってもらいたいって思うのって、気持ちを共有したいからだと思うんだ」
大好きなヒトに私の大好きなモノを知ってほしいし、大好きになってもらいたい。
「それと同じだけ好きになりたい、知りたいと思うけど、正直、私もそれを好きになるかはわからない」
———答え。
「好きになればお互いにいいんだろうけど。でも、否定することは絶対にないよ」
私はどうしたいんだろう。
彼との距離を保つことは彼の恋を応援することで、私の恋に答えは出ない。
いや、出ないのではなくて出さないだけだ。
逃げているのはこの私。
けれど、今の彼に何を言ってもムダだ。
だから恋にはフタをしよう。
何も残らなくても、そっと私の中に閉じ込めておこう。
それが答え。
「………逃げてるよね。私も」
走り抜けていく車の騒音でその言葉は彼に届かない。
「ん? 何だって?」
「何でもない。あ、ちょっとご飯寄ってかない?」
「うん、いいよ。でも終電なくなっちゃうんじゃないの? だって家まで二時間かかるじゃん」
「安心して。今日は梨世に聞きたいことあるから泊まっていこうと思ってて」
嘘をついてでも私は彼のそばに、友達として存在していたい。
「友達だから」
見上げた夜空には太陽を追いかけていた満月がもう沈んでしまっていた。

***

僕がカニクリに付き添ってもらってプレゼントを買ってから彼女の誕生日まではあっという間だった。
彼女の誕生日当日、今月最後の火曜日。
大学の中で彼女に会うことはなかった。
朝の電車も、昼時の学食も、講義が終わってからも、彼女に出会うことはなかった。
たとえ会えたとしてもこの前のことで機嫌を損ねているだろうから話してくれはしないだろう。
僕がそのままバイト先の『Crystal Jellies』に入ると待っていたのは新しく入ったばかりのバイトの女の子だけだった。
「あ、椋木先輩。お疲れ様です」
全身黒ずくめの喪に服したような格好の松井林檎《まついりんご》は店のエプロンを身に付けて水槽をのぞき込みながら餌やりをしていた。
「松井さん、お疲れ様。ずいぶんアクロバティックな餌やりだね」
「………クラゲって案外かわいいですね」
僕の冗談を何も受け止めず松井さんは水槽を上から見ている。
渡来和紗の紹介で入った松井さんは渡来さんの知り合いだけに少し癖《くせ》のある人物だった。
「そう言えばオーナーは? 今日の昼間はオーナーの担当だったよね?」
「オーナーはいつもの病院です。急に代わってくれって言われました」
松井さんは脚立《きゃたつ》を次の水槽に運ぶとまた上から見下ろしながら餌をやり始める。
「そうなんだ。奥さん、何かあったのかな」
「わかりませんけど、あまりいい感じはしないですね」
無表情のまま松井さんは水槽を見つめていた。
「そっか。鹿山さんは?」
「鹿山先輩は今日お休みですよ。そんなこと聞かなくても知ってるんじゃないですか? カノジョなんですよね?」
と次のバイトが見付かるまでの条件付きでバイトに入った松井林檎が僕を見つめる。
「付き合ってなかったんだって。僕達」
「そうだったんですか。私には付き合ってるように見えましたよ」
興味がなくなったように松井さんはまた餌を水槽に浮かべる。
「松井さんってさ、カレシいるの?」
「………いますよ」
その微妙な間が何を示すのか、すぐにはわからなかった。
「そっか。だよね。松井さんかわいいからな」
「かわいくないですよ」
何事もないように松井さんは餌を捕らえるミズクラゲを見ていた。
「フラレたからって、もう他のオンナに乗り換えるんですか?」
「そうじゃないよ。ただ、フラレたのに誕生日プレゼント渡されたらどう思うかなって聞いてみたかっただけ」
「いいんじゃないですか? 私だったらうれしいですよ。———もう会えませんから」
再び松井さんは脚立から降りると次の水槽へと移動する。
最後の言葉は脚立を引きずる音で聞こえなかった。
「最後、何だって?」
「いえ。それで、誕生日っていつなんですか?」
「今日だよ」
「え? 今日ってあと6時間しかないじゃないですか。どうするんですか?」
「いや、だからどうしようかなって」
「椋木先輩、すぐに電話してください」
松井さんはじっと僕を強い眼差しで見つめる。
「今日はもう残り少ないですよ。それに、もう会えなくなったらどうするんですか? 今の気持ちもプレゼントも、そのままにしたら絶対後悔しますよ」
今までにない松井さんのはっきりとした言葉に僕は言葉を失っていた。
「先輩がしないなら私がします」
と松井さんは傷だらけのガラケーを取り出し、電話をかける。
「あ、鹿山先輩ですか? 松井です。お疲れ様です」
ちらっと松井さんは僕を見た。
「大変なんです! 椋木先輩がケガしちゃって! すぐに来てください!」
そう叫んで電話を切った。
大声を出すようなキャラじゃないと思っていた松井さんは得意げにニヤリと笑った。
「これでゆっくり歩いたとしても鹿山先輩の家から20分で到着できるはずですから気長に待ちましょ」
「気長にって彼女が家にいるのかもわからないのに?」
「最近鹿山先輩、引きこもってるって言ってましたよ」
「引きこもってるの? 鹿山さんが?」
「はい。夢のためにがんばってるって言ってましたよ」
夢。
彼女がそんなことを言ったなんて想像できなかった。
「どんな夢だって?」
「そこまでは教えてくれませんでしたよ」
その夢を、僕は知りたいと思った。


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