キャラメルと月のクラゲ
電話が終わってから僕達は餌をすくい、掃除をして時間を潰していた。
ちょうど松井さんが休憩に入った頃、勢いよく店のドアが開いた。
「椋木くん!」
ヒールの高いショートブーツで走ってきたようで少し息が乱れていた。
「………ん? あれ? 元気………?」
いつものようにエプロンを付けてレジに立っている僕を見て彼女は拍子抜けしていた。
「ごめん。元気です」
彼女の声が聞こえたのかバックヤードから松井さんが顔を出した。
「あ、鹿山先輩。お疲れ様です。遅かったですね。私、これから休憩なんでごゆっくりどうぞ」
「え? ちょっと松井さん?」
「一時間くらいで戻ってきます」
すれ違いざま松井さんは彼女に何か言ったようだった。
「お節介。でも、………ありがとう」
彼女が小声でそう言った。
ドアベルの余韻が残る店内に響くクラシックの曲が一瞬の沈黙を生み出す。
僕の視線の先で彼女は青いライトに照らされたミズクラゲを見ていた。
その横顔のシャープなアゴのラインが前よりもくっきりと映し出されている。
「ケガは? ほんとうにないの?」
少し痩《や》せたのかもしれない。
「ないよ。何か、ごめんね」
「………何が?」
ぼそっとした声は機嫌が悪いようにも聞こえた。
「松井さんのお節介」
「ほんとうだよ。先輩の勉強会、途中で抜け出してきたんだからね」
思い出したように彼女は話しながら歩いてきて、
「絶対今度ご飯おごらせてやる」
とソファに座った。
「あー、例の先輩? 何の勉強会なの?」
「えっと、………経営のこと。ウチの大学じゃ勉強できないから」
「その先輩って経営学部のヒト?」
「そう、って言っても違う大学ね。K大OBなんだよ。社会人三年目だから私達より五個上なのかな。———ねえ、何か飲む物ない? 走ってきて喉《のど》カラカラ」
彼女がそう言ったので僕は、しょうがないな、と言って事務所の冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを差し出す。
「でね、先輩って今はマジメに起業するとか経営とは、なんて言ってるけど最初に会った時はめっちゃチャラくて、1年でもこんなにヒトは変わるんだってくらい真逆で」
ありがとう、と彼女はペットボトルを受け取った。
「だから、私も変われるのかなって思ってさ」
今度は何も言わずに彼女が僕にペットボトルを差し出す。
「お願いします、は?」
「お願い」
「しょうがないな」
「そういう言い方、好きじゃない」
僕はペットボトルを開けて彼女に返す。
「はい。ごめんね」
「ウソ。絶対思ってないでしょ。とりあえず謝っとけばいいんだろ? な感じ」
「そんなことないよ。今のはちょっと意地悪でした」
「そうだよ。椋木くんはいつだって意地悪だよ」
「そうかな?」
「そうなの。最初にここで会った時だって、普通泣き疲れて寝てる女の子にキャラメル食べさせる?」
「だってそれは鹿山さんが魚みたいに口をパクパクさせてて、餌をほしがってるのかなって」
「私は魚じゃありません。ちゃんと足もあります」
彼女は足をバタバタとさせると、
「———この前のこと、私、まだ許してないよ」
そのつま先を見つめたまま言った。
「そのことは僕が悪かったよ。鹿山さんが尊敬してる先輩のこと悪く言って」
「そうだよ。尊敬してるの。私のことはバカにしても軽蔑してくれてもいいよ。でも、会ったこともないヒトをそんなふうに言うのはやめて」
短めのワンピースの裾から伸びる脚は細くて白い肌が青白く輝いて見えた。
「それに、椋木くんにはそんなことを言うようなヒトになってほしくない」
視線が交わらない僕達のクロストークは事務所の扉が開いて中断された。
「あれ? 松井さん、早いね」
「はい。コンビニでお弁当買ってきました。あとのことはやっとくんで先輩方、今日はもうお帰りいただいてもかまいませんよ」
「え? 大丈夫?」
「はい。あとちょっとですし、きっと暇ですよ。お二人でご飯でも食べてきてくださいよ」
松井さんのお節介が僕達に対する気遣いなのは容易に感じ取れた。
「あー、ごめん。今日はイズちゃんご飯の日だから私帰らないといけないの」
「そうですか。じゃあ椋木先輩、送ってあげてください」
そうやって少し強引に松井さんは僕達を送り出した。
「今日の松井さんっていつもとキャラ違くない?」
「何かすごいお節介だったよね。普段は素っ気なくて何考えてるかわかんないのに」
「それは椋木くんのことでしょ?」
「え? そんなことないよ」
「そんなことあるよ。それに、こうやってちゃんと話すのも久しぶりだし」
街灯に照らされた帰り道は冬の気配を知らせていた。
「それは、何か気まずいじゃん。付き合ってたって僕だけが勘違いしてたから」
肩が触れ合う距離で歩く彼女の首筋が夜風にさらされて寒そうだった。
「うん、ごめんね。私のせいだね」
「そんなことないよ」
そう言っても彼女の視線は下を向いたままだった。
「あの時ね、私、………自分のことが許せなかったんだと思うの」
その歩き続ける速度に僕は合わせる。
「椋木くんに、———朋弥に言ったこと、私が言われたことだったの」
吐き出すような彼女の独白は視線も絡み合うことなく続けられる。
「付き合うなんて言ってないって、一回ヤッたくらいで付き合ってるって思われてもって、私が言われたの」
僕は彼女の言葉を受け止めるしかできなかった。
「意地悪してごめんね。朋弥」
「もういいよ」
けれど、過去に誰に何を言われたとかそんなことは聞きたくなかった。
「もう終わったことだからいいんだよ」
僕達は今を生きていて、未来を歩いていくんだから。
「———そうだよね。終わったことだもんね」
その時、僕の隣には誰がいるんだろうか。
できるならそれが君であればいいのにと、夜空を照らす真上の半月に思った。
「………そうだ。これ、渡そうと思ってて」
僕は立ち止まると、バッグの中から小さな四角い箱を取り出す。
「え? あ———」
彼女も立ち止まり振り返る。
「誕生日、おめでとう」
「………覚えてたんだ?」
「うん。僕の誕生日に話したよね。半年後だって」
「そうだね。その時も、月がキレイだったね」
「うん。今日も月がキレイだね」
その半月を見上げて、彼女は僕を見た。
「気持ちは、うれしいんだけど。でも、ごめん。もらえない。もらう資格なんてないよ」
「資格って何だよ」
「私、朋弥にひどいことしてきた」
「そんなことはもういいんだよ」
「よくないよ。私が私を許せない」
僕と彼女との微妙な距離感が今の僕達の心の距離だ。
少し先にいる彼女に僕は追い付けない。
「だから、ごめん。今はもらえない」
今は———
その言葉の真意を確かめることはできたかもしれない。
それでも僕は———
「わかった。それでも、誕生日おめでとう」
「うん。ありがとう。その気持ちだけでもう、充分だよ」
それを確かめることなく、彼女のマンションの入り口まで送り届けた。

***

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