空の下の笑顔の樹
ふんふん♪
夏休みが終わって二学期が始まると、私の駄菓子屋は一気に暇になってしまう。お客さんが少ない午前中は特に暇だ。私は時間を持て余してしまい、仕方なく家庭菜園の手入をする。一年中、夏休みだったらいいのにって思いながら。
九月九日土曜日、天気は爽やかな秋晴れ。まだまだ夏の日差しが強いけど、心地よい風が吹いている。今日は絶好のハイキング日和。
午前中だけ営業して、お昼過ぎに駄菓子屋のシャッターを閉めて、シャッターの中央に臨時休業のお知らせの貼り紙を貼り、お昼ご飯を食べた後、普段は滅多にしないメイクをしてみた。今日はいつもより肌の調子が良いのか、メイクのノリが良い。
優太さんが来る時間まで、あと三十分くらい。ドキドキしすぎて落ち着かない。私は高鳴る鼓動を抑えながら、オレンジ色のリュックサックに駄菓子とお絵描きセットとハンカチとタオルとコーヒー牛乳の入った水筒を詰め込んで、服を着替えて履き慣れたスニーカーを履いて麦わら帽子を被り、スケッチブックを持って駄菓子屋の軒先に立った。
「菓絵さん、こんにちは。どうもお待たせしました」
約束の時間に迎えに来てくれた優太さんのスタイルは、先週の土曜日と全く同じ。
「優太さん、こんにちは。天気が良くて本当に良かったですね。駄菓子をいっぱい持ってきましたので、あとで一緒に食べましょう」
「はい。遠慮なくご馳走になります。それでは出発しましょうか」
「はい! エスコートをよろしくお願いします!」
これは果たしてデートなのか。ただのハイキングなのか。どちらにせよ、優太さんと一緒に出かけられたことが嬉しくて、自然と心が弾んできた。優太さんも私も小麦色の麦わら帽子を被っているので、はたから見れば、恋人同士に見えるかもしれない。
「優太さん! ちょっと待ってください! 私を置いて行かないでくださいよ!」
駄菓子屋の店番と畑いじりと絵を描いているだけの日々を送っている私は、明らかに運動不足だ。日頃からよく歩いている優太さんに、私の駄菓子屋から五百メートル程歩いた所で、十メートル以上も引き離されてしまった。
「どうもすみません」
私に後ろから声を掛けられた優太さんは、すぐにその場で立ち止まり、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。私はそんな優太さんを見ていて、逆に申し訳なく思ってしまい、大急ぎで優太さんの元に駆け寄った。
「私が歩くのが遅いだけです。もっと速く歩くようにします」
「いえいえ、僕のペースが速かったんです。菓絵さんのペースに合わせて歩きますね」
歩くのが遅い私のペースに合わせてくれた優太さんと駅まで歩いていき、電車を二本乗り継いで、優太さんが通っている丘の最寄りの駅で降りた。
「私は、この駅で降りたのは初めてです」
駄菓子屋を切り盛りするようになってから、電車に乗る機会がめっきりと減ってしまった私。初めてに決まっている。
「菓絵さんは初めてなんですね。僕はもうかれこれ、百五十回目くらいになります」
「優太さんはそんなに降りているんですか」
百五十回という数字を聞いて、私は驚いた。優太さんが通い続けている丘は、いったいどんな感じの丘なのだろう。早く自分の目で確かめてみたい。
「この駅から目的地の丘まで、四十分くらい歩きますので、水分補給をしてから出発しましょうか。コーヒー牛乳の入った水筒を出しますので、ちょっと待っててくださいね」
「私もコーヒー牛乳を持ってきましたので、あそこのベンチに座って飲みましょう」
私に気を遣ってくれている優太さんと木陰にあるベンチに座り、麦わら帽子を脱いで、リュックサックを肩から降ろし、乾いた喉を冷たいコーヒー牛乳で潤した。暑い中で飲むコーヒー牛乳は最高に美味しい。
「それではそろそろ出発しましょうか」
「はい。頑張って歩きます」
優太さんも私も麦わら帽子を被り直し、首にタオルを巻いて、リュックサックを背中に背負い、目的地の丘を目指して出発した。初めての街。初めての風景。目に映るもの全てが新鮮に感じられる。
したたる汗をタオルで拭いながら、優太さんと肩を並べて歩いていき、排気ガスが立ち込める大通りを抜けて、入り組んだ坂道を上がっていくと、一気に目の前が開けた。
「わあ、空が高くて広い」
その見晴らしの良さに、私は思わず声を上げた。
どこまでも広がっている青い空。大きくて真っ白でふわふわの雲。群れをなして空を自由に飛び回っている鳥たち。秋の訪れを告げる赤とんぼ。緑の森に囲まれた遠くの山々。さっきまで歩いていた大通り。緩やかな斜面の上にぽつんと立っている一本の樹。熱を持った私の体を優しく冷やしてくれる心地よい風と新鮮な空気の香り。空を遮る建物も電信柱も電線もない。車の排気ガスの臭いは一切しない。とにかく空気が美味しい。身も心も嬉しい。駅から四十分くらいしか歩いていないのに、まるでどこかの有名な山にでも登ったかのような素敵な景色が広がっている。
「とっても見晴らしの良い丘ですね。住宅街の中に、こんなに素敵な丘があったなんて、今まで知りませんでした」
「この丘は、僕のちょっとした秘密の場所でして、空がよく見えそうな場所を探し回っていたときに見つけたんです。北海道にあるような有名な丘ではないので、いつも人は少ないんですが、僕はこの丘が好きなんです」
優太さんが嬉しそうな顔で話してくれた。
「私もこの丘が気に入りました。あそこに立っている樹には何か名前があるんですか?」
丘の上にぽつんと立っている一本の樹。私は気になって仕方がない。
「だいぶ前に、あの樹に名前があるのかどうか、地元の人に尋ねたことがあるんですが、どうやら名前はないようです。僕はあの樹も好きでして、空の下の笑顔の樹と勝手に名前を付けて呼んでいます」
「空の下の笑顔の樹ですか。空が大好きで、いつも笑顔でいる優太さんらしい名前だと思います」
「どうもありがとうです」
にっこりと微笑んだ優太さんは、緩やかな丘の斜面を下っていき、「こんにちは。今日も笑顔だね」と言って、空の下の笑顔の樹に向かって挨拶をしていた。
「ふふふふふ」
優太さんの様子を見ていて、私は微笑ましく思った。樹に向かって挨拶をした人を見たのは初めてだから。
「空の下の笑顔の樹に自己紹介をしてくれませんか」
「あ、はい。すぐに行きます」
私も丘を下っていき、麦わら帽子を脱いで、「こんにちは。初めまして。私は佐藤菓絵と申します。どうぞよろしくお願いします」と言って、空の下の笑顔の樹に向かって自己紹介をしてみた。
生き生きとした緑の葉っぱを身にまとっている空の下の笑顔の樹の高さは、私の身長の五倍以上。幹の太さは、八十センチくらい。数え切れないほどの枝が空に向かって伸びている。私の目の錯覚かもしれないけど、幹の表面の模様が人の顔のように見えて、まるで優しく微笑んでいるかのように見える。
「とっても優しい感じの樹ですね。私も空の下の笑顔の樹が好きになりました」
「気に入ってくれて、すごく嬉しいです。空の下の笑顔の樹の下に座って、空を見上げましょうか」
「はい。このハンカチを敷いてください」
「どうもありがとうです」
私が手渡した花柄のハンカチを笑顔で受け取ってくれた優太さんと空の下の笑顔の樹の下に座り、眩しい青空を見上げた。電車の音も車の音も人の話し声も足音も聞こえない。本当にのどかな丘だと思う。
「優太さん、お腹が減っていませんか?」
「はい。ペコペコです」
「リュックサックから、駄菓子を出しますので、ちょっと待っててくださいね」
「はい。ご馳走になります」
穏やかな表情で青空を見上げている優太さんに、うまい棒を十本と五円チョコを二十個手渡して、私もさくさくのうまい棒とあまーいあまーい五円チョコを食べてみた。
「景色の良い場所で食べると、いつもの何倍も美味しく感じられますね」
「はい。うまい棒も五円チョコも、いつもの何倍も美味しいです」
私が家から持ってきたうまい棒と五円チョコを、とっても美味しそうに食べている優太さんは、まるで遠足に来た少年のよう。
お腹も心も満たされ、夏の終わりを告げる爽やかな秋風を全身で感じながら、のんびりと青空を見上げているうちに、遠くの空がオレンジ色に染まり始めてきた。
「だいぶ日が沈んできましたね。あの美しい夕焼け空と空の下の笑顔の樹を背景にして、菓絵さんの写真を撮ってもいいですか?」
「いいですよ」
「どうもありがとうです。すぐに撮影の準備をしますので、そのまま座っててください」
優太さんは勢いよく立ち上がり、緑の芝生の上に三脚を設置して、私の写真を撮る準備を始めてくれた。
「私も麦わら帽子を被ったほうがいいですか?」
「はい。被ってみてください」
「それでは被りますね」
私も麦わら帽子を被って立ち上がり、空の下の笑顔の樹の真横に立ってみた。こんなに大きな樹の横で写真を撮ってもらうのは初めてなので、どんなポーズにしようか迷ってしまう。私は悩みながら考えて、空に向かって伸びている空の下の笑顔の樹のように、両手を空に向かって高く上げて、エイドリアーン! と心の中で叫んでみた。
「それでは撮りますね」
「はい!」
私は両腕を上げたまま返事をして、優太さんのカメラに向かって微笑んだ。自分の顔は見えないけど、ものすごい笑顔になっていると思う。
パシャ! パシャ! パシャ! パシャ! パシャ!
爽やかな秋風に運ばれてきた優太さんのカメラのシャッター音。とっても心地よく聞こえた。今日の写真の背景は、私の駄菓子屋ではなく、空の下の笑顔の樹とオレンジ色の夕焼け空。どんな風に写ったのか楽しみだ。
「私の写真を撮ってくれて、どうもありがとうございました」
「どう致しまして。夕焼け空の写真を撮りますので、ちょっと待っててくださいね」
「はい。私は絵を描いてますね」
空の下の笑顔の樹の下に座り、家から持ってきたスケッチブックを開いて、カメラのシャッターを押しまくっている優太さんの後ろ姿の絵を描いてみた。絵の背景はもちろん、空の下の笑顔の樹とオレンジ色の夕焼け空。
まあまあの出来かな。鉛筆描きの絵だけど、真っ白いスケッチブックが夕陽の光に照らされて、色鉛筆で描いたかのような絵になった。外で絵を描くと、こういうことがあるから楽しい。
「優太さんは、いつもこの丘に一人で来て、夕焼け空の写真を撮っているんですね」
「はい。背景はいつも同じなんですが、空の表情は毎回違うので、いろんな夕焼け空の写真を撮ることが出来るんです」
空の表情は毎回違う。空が大好きで、夕焼け空の写真を撮りまくっている優太さんの言葉には説得力があると私は思う。
「今日の夕焼け空の感じはどうですか?」
「まだ九月の上旬なので、夕焼けの色はちょっと薄いんですが、あの雲とあの雲が良い感じなので、今日も良い写真が撮れたと思います」
「良かったですね」
「はい。良かったです」
優太さんは満面の笑みを浮かべていた。納得のいく写真が撮れたのだと思う。
「話は変わりますが、僕は子供の頃から紙飛行機を折ることが大好きでして、この秘密の丘に来る度に、あの美しい夕焼け空に向かって紙飛行機を飛ばしているんです。今日は、菓絵さんの紙飛行機も持ってきましたので、よかったら、僕と一緒に飛ばしてみませんか?」
「いいですよ。一緒に飛ばしましょう」
「すぐに紙飛行機を出しますので、ちょっと待っててくださいね」
青色のリュックサックから、白色の紙飛行機を取り出した優太さんが、二機のうちの一機を私に手渡してくれた。
「本格的な紙飛行機ですね」
優太さんの紙飛行機は、全体的にバランスが良さそうで、いかにも飛びそうな形をしている。
夏休みが終わって二学期が始まると、私の駄菓子屋は一気に暇になってしまう。お客さんが少ない午前中は特に暇だ。私は時間を持て余してしまい、仕方なく家庭菜園の手入をする。一年中、夏休みだったらいいのにって思いながら。
九月九日土曜日、天気は爽やかな秋晴れ。まだまだ夏の日差しが強いけど、心地よい風が吹いている。今日は絶好のハイキング日和。
午前中だけ営業して、お昼過ぎに駄菓子屋のシャッターを閉めて、シャッターの中央に臨時休業のお知らせの貼り紙を貼り、お昼ご飯を食べた後、普段は滅多にしないメイクをしてみた。今日はいつもより肌の調子が良いのか、メイクのノリが良い。
優太さんが来る時間まで、あと三十分くらい。ドキドキしすぎて落ち着かない。私は高鳴る鼓動を抑えながら、オレンジ色のリュックサックに駄菓子とお絵描きセットとハンカチとタオルとコーヒー牛乳の入った水筒を詰め込んで、服を着替えて履き慣れたスニーカーを履いて麦わら帽子を被り、スケッチブックを持って駄菓子屋の軒先に立った。
「菓絵さん、こんにちは。どうもお待たせしました」
約束の時間に迎えに来てくれた優太さんのスタイルは、先週の土曜日と全く同じ。
「優太さん、こんにちは。天気が良くて本当に良かったですね。駄菓子をいっぱい持ってきましたので、あとで一緒に食べましょう」
「はい。遠慮なくご馳走になります。それでは出発しましょうか」
「はい! エスコートをよろしくお願いします!」
これは果たしてデートなのか。ただのハイキングなのか。どちらにせよ、優太さんと一緒に出かけられたことが嬉しくて、自然と心が弾んできた。優太さんも私も小麦色の麦わら帽子を被っているので、はたから見れば、恋人同士に見えるかもしれない。
「優太さん! ちょっと待ってください! 私を置いて行かないでくださいよ!」
駄菓子屋の店番と畑いじりと絵を描いているだけの日々を送っている私は、明らかに運動不足だ。日頃からよく歩いている優太さんに、私の駄菓子屋から五百メートル程歩いた所で、十メートル以上も引き離されてしまった。
「どうもすみません」
私に後ろから声を掛けられた優太さんは、すぐにその場で立ち止まり、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。私はそんな優太さんを見ていて、逆に申し訳なく思ってしまい、大急ぎで優太さんの元に駆け寄った。
「私が歩くのが遅いだけです。もっと速く歩くようにします」
「いえいえ、僕のペースが速かったんです。菓絵さんのペースに合わせて歩きますね」
歩くのが遅い私のペースに合わせてくれた優太さんと駅まで歩いていき、電車を二本乗り継いで、優太さんが通っている丘の最寄りの駅で降りた。
「私は、この駅で降りたのは初めてです」
駄菓子屋を切り盛りするようになってから、電車に乗る機会がめっきりと減ってしまった私。初めてに決まっている。
「菓絵さんは初めてなんですね。僕はもうかれこれ、百五十回目くらいになります」
「優太さんはそんなに降りているんですか」
百五十回という数字を聞いて、私は驚いた。優太さんが通い続けている丘は、いったいどんな感じの丘なのだろう。早く自分の目で確かめてみたい。
「この駅から目的地の丘まで、四十分くらい歩きますので、水分補給をしてから出発しましょうか。コーヒー牛乳の入った水筒を出しますので、ちょっと待っててくださいね」
「私もコーヒー牛乳を持ってきましたので、あそこのベンチに座って飲みましょう」
私に気を遣ってくれている優太さんと木陰にあるベンチに座り、麦わら帽子を脱いで、リュックサックを肩から降ろし、乾いた喉を冷たいコーヒー牛乳で潤した。暑い中で飲むコーヒー牛乳は最高に美味しい。
「それではそろそろ出発しましょうか」
「はい。頑張って歩きます」
優太さんも私も麦わら帽子を被り直し、首にタオルを巻いて、リュックサックを背中に背負い、目的地の丘を目指して出発した。初めての街。初めての風景。目に映るもの全てが新鮮に感じられる。
したたる汗をタオルで拭いながら、優太さんと肩を並べて歩いていき、排気ガスが立ち込める大通りを抜けて、入り組んだ坂道を上がっていくと、一気に目の前が開けた。
「わあ、空が高くて広い」
その見晴らしの良さに、私は思わず声を上げた。
どこまでも広がっている青い空。大きくて真っ白でふわふわの雲。群れをなして空を自由に飛び回っている鳥たち。秋の訪れを告げる赤とんぼ。緑の森に囲まれた遠くの山々。さっきまで歩いていた大通り。緩やかな斜面の上にぽつんと立っている一本の樹。熱を持った私の体を優しく冷やしてくれる心地よい風と新鮮な空気の香り。空を遮る建物も電信柱も電線もない。車の排気ガスの臭いは一切しない。とにかく空気が美味しい。身も心も嬉しい。駅から四十分くらいしか歩いていないのに、まるでどこかの有名な山にでも登ったかのような素敵な景色が広がっている。
「とっても見晴らしの良い丘ですね。住宅街の中に、こんなに素敵な丘があったなんて、今まで知りませんでした」
「この丘は、僕のちょっとした秘密の場所でして、空がよく見えそうな場所を探し回っていたときに見つけたんです。北海道にあるような有名な丘ではないので、いつも人は少ないんですが、僕はこの丘が好きなんです」
優太さんが嬉しそうな顔で話してくれた。
「私もこの丘が気に入りました。あそこに立っている樹には何か名前があるんですか?」
丘の上にぽつんと立っている一本の樹。私は気になって仕方がない。
「だいぶ前に、あの樹に名前があるのかどうか、地元の人に尋ねたことがあるんですが、どうやら名前はないようです。僕はあの樹も好きでして、空の下の笑顔の樹と勝手に名前を付けて呼んでいます」
「空の下の笑顔の樹ですか。空が大好きで、いつも笑顔でいる優太さんらしい名前だと思います」
「どうもありがとうです」
にっこりと微笑んだ優太さんは、緩やかな丘の斜面を下っていき、「こんにちは。今日も笑顔だね」と言って、空の下の笑顔の樹に向かって挨拶をしていた。
「ふふふふふ」
優太さんの様子を見ていて、私は微笑ましく思った。樹に向かって挨拶をした人を見たのは初めてだから。
「空の下の笑顔の樹に自己紹介をしてくれませんか」
「あ、はい。すぐに行きます」
私も丘を下っていき、麦わら帽子を脱いで、「こんにちは。初めまして。私は佐藤菓絵と申します。どうぞよろしくお願いします」と言って、空の下の笑顔の樹に向かって自己紹介をしてみた。
生き生きとした緑の葉っぱを身にまとっている空の下の笑顔の樹の高さは、私の身長の五倍以上。幹の太さは、八十センチくらい。数え切れないほどの枝が空に向かって伸びている。私の目の錯覚かもしれないけど、幹の表面の模様が人の顔のように見えて、まるで優しく微笑んでいるかのように見える。
「とっても優しい感じの樹ですね。私も空の下の笑顔の樹が好きになりました」
「気に入ってくれて、すごく嬉しいです。空の下の笑顔の樹の下に座って、空を見上げましょうか」
「はい。このハンカチを敷いてください」
「どうもありがとうです」
私が手渡した花柄のハンカチを笑顔で受け取ってくれた優太さんと空の下の笑顔の樹の下に座り、眩しい青空を見上げた。電車の音も車の音も人の話し声も足音も聞こえない。本当にのどかな丘だと思う。
「優太さん、お腹が減っていませんか?」
「はい。ペコペコです」
「リュックサックから、駄菓子を出しますので、ちょっと待っててくださいね」
「はい。ご馳走になります」
穏やかな表情で青空を見上げている優太さんに、うまい棒を十本と五円チョコを二十個手渡して、私もさくさくのうまい棒とあまーいあまーい五円チョコを食べてみた。
「景色の良い場所で食べると、いつもの何倍も美味しく感じられますね」
「はい。うまい棒も五円チョコも、いつもの何倍も美味しいです」
私が家から持ってきたうまい棒と五円チョコを、とっても美味しそうに食べている優太さんは、まるで遠足に来た少年のよう。
お腹も心も満たされ、夏の終わりを告げる爽やかな秋風を全身で感じながら、のんびりと青空を見上げているうちに、遠くの空がオレンジ色に染まり始めてきた。
「だいぶ日が沈んできましたね。あの美しい夕焼け空と空の下の笑顔の樹を背景にして、菓絵さんの写真を撮ってもいいですか?」
「いいですよ」
「どうもありがとうです。すぐに撮影の準備をしますので、そのまま座っててください」
優太さんは勢いよく立ち上がり、緑の芝生の上に三脚を設置して、私の写真を撮る準備を始めてくれた。
「私も麦わら帽子を被ったほうがいいですか?」
「はい。被ってみてください」
「それでは被りますね」
私も麦わら帽子を被って立ち上がり、空の下の笑顔の樹の真横に立ってみた。こんなに大きな樹の横で写真を撮ってもらうのは初めてなので、どんなポーズにしようか迷ってしまう。私は悩みながら考えて、空に向かって伸びている空の下の笑顔の樹のように、両手を空に向かって高く上げて、エイドリアーン! と心の中で叫んでみた。
「それでは撮りますね」
「はい!」
私は両腕を上げたまま返事をして、優太さんのカメラに向かって微笑んだ。自分の顔は見えないけど、ものすごい笑顔になっていると思う。
パシャ! パシャ! パシャ! パシャ! パシャ!
爽やかな秋風に運ばれてきた優太さんのカメラのシャッター音。とっても心地よく聞こえた。今日の写真の背景は、私の駄菓子屋ではなく、空の下の笑顔の樹とオレンジ色の夕焼け空。どんな風に写ったのか楽しみだ。
「私の写真を撮ってくれて、どうもありがとうございました」
「どう致しまして。夕焼け空の写真を撮りますので、ちょっと待っててくださいね」
「はい。私は絵を描いてますね」
空の下の笑顔の樹の下に座り、家から持ってきたスケッチブックを開いて、カメラのシャッターを押しまくっている優太さんの後ろ姿の絵を描いてみた。絵の背景はもちろん、空の下の笑顔の樹とオレンジ色の夕焼け空。
まあまあの出来かな。鉛筆描きの絵だけど、真っ白いスケッチブックが夕陽の光に照らされて、色鉛筆で描いたかのような絵になった。外で絵を描くと、こういうことがあるから楽しい。
「優太さんは、いつもこの丘に一人で来て、夕焼け空の写真を撮っているんですね」
「はい。背景はいつも同じなんですが、空の表情は毎回違うので、いろんな夕焼け空の写真を撮ることが出来るんです」
空の表情は毎回違う。空が大好きで、夕焼け空の写真を撮りまくっている優太さんの言葉には説得力があると私は思う。
「今日の夕焼け空の感じはどうですか?」
「まだ九月の上旬なので、夕焼けの色はちょっと薄いんですが、あの雲とあの雲が良い感じなので、今日も良い写真が撮れたと思います」
「良かったですね」
「はい。良かったです」
優太さんは満面の笑みを浮かべていた。納得のいく写真が撮れたのだと思う。
「話は変わりますが、僕は子供の頃から紙飛行機を折ることが大好きでして、この秘密の丘に来る度に、あの美しい夕焼け空に向かって紙飛行機を飛ばしているんです。今日は、菓絵さんの紙飛行機も持ってきましたので、よかったら、僕と一緒に飛ばしてみませんか?」
「いいですよ。一緒に飛ばしましょう」
「すぐに紙飛行機を出しますので、ちょっと待っててくださいね」
青色のリュックサックから、白色の紙飛行機を取り出した優太さんが、二機のうちの一機を私に手渡してくれた。
「本格的な紙飛行機ですね」
優太さんの紙飛行機は、全体的にバランスが良さそうで、いかにも飛びそうな形をしている。