ファインダー越しに、その世界を殺して。
プロローグ

「ねぇ、」


7年前の春、何の前触れもなく買い物袋を引き下げる俺を後ろから突き飛ばしてきた女がいた。

前につんのめった俺が気になったのは自分の安否より買ったばかりの卵の心配だった。

体勢を立て直し文句の一つでも浴びせてやろうと振り返れば俺の後ろには誰もいない。


「撮らせてくれない?」


夕暮れ時の空に凛と響いた声を辿れば俺のはるか下にその女はいた。

小学生のような小さな身体に不釣り合いの一眼レフを引き下げじっとりと見定めるように熱を孕む視線が俺を射抜いて離さない。


「Sって名前でフリーのカメラマンやってる。一応カメラで生計立てられるくらいには売れっ子だから」


女は『フォトグラファー S』のシンプルな文字と隅に可愛らしい苺のイラストが描かれた名刺を俺の手にねじ込んできた。


「アンタのこと撮りたいって思ったの、お願い」


旋風が彼女の黒髪を揺らしても瞬き一つしない女は依然としてこちらを真っ直ぐと見つめている。

150cmあるかないかの小柄な女は身長差により否応なしに上目遣いだ。肩にかかるショートカットの髪の毛が頭のてっぺんから耳元までカチューシャよろしく編み込まれているせいか彼女の表情は夕陽に照らされてもなおはっきりと見て取れる。

うっすらと頬が紅く染まって見えるのは気のせいだろうか。

可愛くないことはない。ツンと上を向いた鼻先だけが彼女の気の強さを隠しきれていなかった。

あの女も生意気だったなぁなんて数ヶ月前別れた彼女を思い出す。まぁ、初対面の男を突き飛ばすような世間知らずはこちらから願い下げだ。

言動も行動も意味不明だが真剣な眼差しだけは本物なようで、ここで切り捨てて去るようでは男が廃るだろう。


「立ち話もなんだから飯食いながらでいいか?」

「……は?」

「俺そこのおばんざい屋の店主な」


もうすぐ夕飯の時間だろ、と続ければ女のつり目がちな瞳が更に大きく開かれる。そんなに驚かなくたっていいだろうに。


「Sさん名前は?」

「た、ちばな……小百合」


女の赤く塗られた指先がぎゅっと握り込まれる。

サイズのあってないラフな白シャツに色付いた爪先がなんともアンバランスだった。

ファッションに無頓着な俺はオシャレなのかどうかさっぱりわからないが、足元に目をやると赤いパンプスを履いていて赤色が好きなのかと勝手に推測していた。

俺も赤は好きだ。店に置く物に赤を入れると目立ちすぎるから臙脂色に落ち着けているが。


「立花小百合?」

「うん、立花小百合。そう、あたし立花小百合」


これが立花小百合と俺との初めての出会いだった。

この女と過ごした1年間、名乗った名前も触れた体温も好きだと紡いだ唇も、ファインダー越しに俺を見つめる女の全てが嘘だったなんて話、誰が信じられるって言うんだ。

立花小百合は確かにそこにいた。立花小百合は生きていた。立花小百合は「止めてくれ」と腕の中で泣いていた。俺は立花小百合を覚えている。世界中の誰一人立花小百合を知らなくとも。







お前が消えた冬の海を7年後の今日、俺はあいつのカメラを担いで探しに出掛けていた。重たい。あんな頼りない肩でこんな機材をいつも背負っていたんだ。あいつは。


手掛かりは残されたカメラだけ。

彼女が写らない世界など殺してしまえばいいとすら思った。

遅すぎた。遅刻するのは俺の専売特許だった。ごめんな、待ってるんだろ。お前は俺が来るのを今も。はやく、ぶつかってこい。突き飛ばしにこい。

夕焼けに染まる海は燃えるように赤く、寄せては返す波の音に俺はシャッターを切った。








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