S系御曹司と政略結婚!?


そのまま大人しく社長室に入室すれば良かったのに。目撃したが最後、その場を動けなくなる。

最上階にある社長室は見晴らしが良い。不意にヤツが働くフロアで、ここから臨む景色を眺めたくなったのだ。

だけど、その光景が視界に入った瞬間、足が縫いつけられたように動けなくて。私はただ、その場に立ち尽くしていた。


視線の先に捉えたふたりが誰なのか、すぐに分かってしまった。

そびえ立つ高層ビル群の最上階の一角で、キスをしているのは和也と主だと。

社長室のフロアは来客や会議のない限り、基本的に静寂に包まれている。

初めから邪魔されることのない、ふたりだけの世界だからなの……?

社長室からは死角となる場所で、こっそり情事を楽しむ彼ら。ぼんやり眺める私の心は悲鳴を上げていた。

ようやく我に返った私は、その場を離れたい一心で足を懸命に動かし、踵を返すことに。

同行の実紅に目を向けると、真っ青な顔色で言葉も出ないらしい。だけど、私に無言でついてきてくれた。

混乱状態の私たちに気づいた主が、ひっそり嘲笑していたとは知る由もなく……。


このフロアは絨毯が敷かれており、靴音も吸収してくれる。そのおかげで気づかれなかったのだ。


どうして、今日に限ってあの場所に足が向いたんだろう……?

私のことが好きって言ってくれたのは、やっぱり嘘なんだね。

一応妻だって同じ職場なんだよ?社内で彼女にキスするのは配慮が足りなかったよ。

ここで泣いても惨めなだけだから、絶対に泣かない。強がるほどに、針で刺されたような鋭い痛みが心を打ち砕いていく。

これで和也に『いらない』なんて言われたら、……きっと心が壊れちゃうよ。


気分の悪さを覚えた刹那、視界がぐるぐると渦を巻いて揺れ始める。

咄嗟に立ち止まった私はその場で目を閉じてしまう。真っ暗闇に逃げ込んでも、あの光景は消えてくれない。

——もうだめ……これ以上、前を見続けられないよ。


「……華澄ちゃんっ!」

実紅の声が聞こえたのを最後に、私の意識は奥深くに沈んでいった。


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