エースとprincess
 思い出した。

 あのとき、隣に立っていたのはまぎれもなくこの人だった。この古風な顔立ち。なんで忘れていたんだろう。両手で頬を覆う。自分が信じられない。歌わなきゃいけない場面で私、腰の重そうな男の子を確かに誘った。誰かがやらなきゃあとが続かないからさっさとやっちゃおう、って思った。この人、音痴だから歌うの渋ってんのかなあ、くらいのことも考えてた。


「その節はどうも」

「なんていうか……深い味わいの歌を一緒に歌えて、貴重な経験させてもらったよ」

 ん?
「貴重な経験はともかく、『深い味わいの歌』?」
「音の取りかたが独特で、たまに先走る」
「音痴ってこと?」

 沈黙が落ちる。肯定ですか。そうですか。

「姫里には才能があるよ。楽しい空気を呼びこむ才能」

 言いながらベランダに通じるガラス戸を開ける。雨の湿った匂いと風と、昼の名残のようなかすかな熱気が運ばれてくる。


「雨、止んだ?」
「小降りにはなってる。どうする」
「泊まってもいいなら泊まりたい」

 瑛主くんの視線が横に流れる。左手で首のうしろをかいている。

「交通もまだ乱れているだろうしな」

 自分に言い聞かせているようなつぶやき。私は苦笑いをかみ殺した。生真面目な物言いが滑稽だった。見ためのとおり堅物なのかな。仕事をするようになって二週間弱。私たちはまだ手探りで知ることばかりだ。

「抱きたいならそれでいいのに」

 部屋にあがりこんだ時点でそのくらいの覚悟はできている。

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