イジワル御曹司に愛されています
けれど、セキュリティエリアとロビーを隔てるガラスドアをくぐったとき、そこに来客らしき人の姿はなかった。

あれ? 受付さんがもう会議室に案内してくれてしまったとか?

今来た廊下を振り返るものの、そんな気配もない。たまたまドアが開いたときに、迷い込んでしまったとか…いやまさか。


「あの都筑くんが迷子なんてねえ」

「誰が迷子だ」


頭のすぐ後ろから聞こえてきた冷ややかな声に、ひっと背筋を正した。

手帳代わりにしているカレンダーノートを胸元に抱いて、身体を固くする。嫌な汗が全身を覆った。


「あっ、お待たせしました、ご案内します」

「なに客に背中向けて声だけ平常運行気取ってんの?」

「…ご案内します」

「下向きすぎだろ」


向かい合う形に身体を反転させても、許されなかった。汚れのない、きれいな形の革靴から目を離し、なんとか向こうのベルトあたりまで視線を上げてみる。

斜め上から、めちゃくちゃ観察されているのを感じる。


「千野寿(ことぶき)」


フルネームを呼ばれ、反射的にびくっとした。そうだ、この声、この呼び方。よみがえってくる恐怖。


「えっ?」

「えっ? じゃねえよ、南高の千野寿だろ」

「…人違い…」

「さっき自分でも『あの都筑くん』て言ってたじゃねーか」


失態!

唇を噛み、観念して顔を上げる。気持ちが邪魔をしすぎて、ギギギ、と首が軋む音が聞こえてきそうだった。

見上げる位置にある顔。整いすぎていて冷たい印象を与えるのは、昔と同じ。ちょっとけだるそうな切れ長の目、通った鼻筋、不機嫌な口元。金に近い茶色だった髪は、さらっと清潔な黒髪に変わっている。

ふいに口が開いて、並びのいい歯がのぞいた。


「お前さあ…」

「あの! わ、私、誰にも言いませんので」


思わず受付のお姉さんがこちらを見るほどの声を出してしまった。青くなってバインダーで口を押さえる。
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