イジワルな彼に今日も狙われているんです。
「今日は、誘ってくれてありがとうございました。とても楽しくて時間を忘れちゃいました。それじゃあ──」



言いながら身体を起こそうとした私の左手を、唐突に尾形さんが掴んだ。

驚く間もなくその手を引かれ、身体が傾く。

ふわっと、尾形さんがいつも吸っているタバコとお酒の匂いが鼻先をかすめて。気付けばくちびるに、あたたかい感触。



「──、」



あ。これって、キスだ。

そう気付いたのは、見開いたままのぼんやりした視界に目を閉じた尾形さんの綺麗なお顔が映っていたから。

くちびるに触れたやわらかい熱は、ただその表面を軽く重ね合わせて温度を分けただけで、すぐに離れていった。


最初っから最後まで目を開きっぱなしの私は、正面にいる人物を呆然と見つめる。

なんだかぼんやりしていた尾形さんは、次の瞬間ハッとして。自分の口元を片手で覆ったかと思うと、みるみるうちにその整った顔から血の気をなくしていく。



「今、俺……」



その小さなつぶやきが私の耳に届くと同時に、尾形さんがゆるゆると顔を上げるからびくっと肩がはねた。

彼はそんな私を見て、なぜか苦しそうに眉をひそめると。声には出さずくちびるの動きだけで、『ごめん』となぞったのがわかった。


もう、わけがわからない。

こちらが口を開く前に、尾形さんが私の肩を掴んで車外へと押し退けた。

立ちすくむ私に構うことなく、目の前でドアが音をたてて閉まる。

そのまま走り去って行くタクシーを、私はやはり身じろぎできずに唖然としたまま見送った。


──なんか、いきなりだったしよくわからないまま終了したけど……あれって一応、私のファーストキス……だよ、ね?

未だ混乱したままの脳内に浮かんだその事実が私をさらに悶えさせるのは、駅のホームから電車に乗り込みなんとか空いていた座席に座って溜め込んだ熱い息を吐く、今から15分後のこと。
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