好き ということ。
◆ いつもの時間 ・・・
月曜日、とても落ち着いていられない私は、いつもより1時間早く自宅を出た。陸上部の朝連の開始時刻に合わせての事だ。
電車に駆け込んだ時から、徐々に心拍数が上がっていた。もし、万一朝練に参加していない、なんて事があれば・・・
最後の坂道を登りながら、暑さとは違う汗が全身からにじむ。
呼吸を乱しなが、らいつも美優が覗き込むポジションにしがみ付いた。
グランドにチラホラと生徒の姿がある。サッカー部の部員が、シュート練習をしている。野球部員たちが、練習用のユニホームで外周を走っている。その向こう側に、クラブハウスから出てくる陸上部員たちの姿。
「あ・・・」
ほんの三日、会えなかっただけなのに。
ほんの三日、連絡がなかっただけなのに。
安堵の吐息とともに、遠くに見える智洋の姿がぼやけてくる。
私は鼻を啜ると、まだまばらな坂道を登り切り教室へと向かった。
「おーす!!」
いつものように前方から声が響き、教室に桐山が入ってくる。私の視線は桐山ではなく、後方の扉に向く。
「オッス」
体裁が悪いのか、小さな声で呟くように言う。
自分の席に向かって歩いて来る智洋。当然、真正面から私と視線がぶつかる。智洋は一瞬視線を外したあと、笑みを浮かべた。
「おはよう」
いつもと変わらない笑顔を見て、嬉しいやら、悲しいやら、一周回って怒りが込み上げ、智洋の席にツカツカと歩み寄った。
「ツラ貸しな」
眉間にシワを寄せて見下ろす私を見て、智洋はただうなずくしかできなかった。
教室から出て行く私に、慌てて智洋がついて来る。私は無言で廊下を突き当たりまで進むと、重い鉄扉を開いた。
風が吹き付ける非常階段の踊り場に、少し遅れて智洋がやって来る。私は感情に任せ、一気にまくし立てる。
「時間無いから手っ取り早く聞きけど、いったいどういう事?金曜日は学校来ないし、メールしても返事は無いし、電話しても全然出ないし、全然何の連絡もしてこない。いったい、どういう事?納得いく説明してくれないなら、本当に本気で怒るよ?」
「もう、怒ってるじゃん」
「はあ?」
智洋は肩をすぼめ、後ろに身を引く。
「実はさあ、オレもうすぐ死ぬんだ」
言われた言葉の意味を理解するまで、ゆうに5秒は必要だった。
「な・・・何、言ってんの?」
狼狽なんて言葉では表現できない心の激しい揺れとともに、言葉の意味を理解すると同時に膝がガクガクと震え始めた。
実感は無い。事の重大性を本当の意味で理解できてはいない。それでも、頭の先から音を立てて血の気が引いていくのが分かった。
真顔で私の様子を眺めていた智洋は、一言だけつぶやいた。
「冗談」
「今・・・なんて?」
「だから、冗談だってば。そんなドラマチックな事が、普通の高校生に起きるはずないじゃん。それにさ、もし、本当にそうだったとしても、冬優花には言わないよ」
殴った。
グーで。
シャレになっていない。
許せない。
マジ許せない!!
もう一度、グーで殴り付けた。
「ふざけんな!!
どんだけ心配したと思ってるのよ!!」
「ごめん。ホント、ごめん」
土下座して謝る智洋を見下ろしてもまだ、怒りが治まらない私は拳を握り締めたままだった。
「それがさ、頭を打ったからって、総合病院に検査に行ったんだ。
まあ、待ち時間が長いのなんの。名前が呼ばれたのは昼過ぎ。おまけに検査結果が出るまでに、更に時間がかかってね。診断結果が出て医者の話しを聞き終わったら、もう4時過ぎだったんだよ。今更学校行っても仕方ないしで、休んだってわけ」
病院に行くようにと、保健室の先生や陸上部の顧問が言っていたのは知っている。だから、病院に検査に行って来たというのは分かる。
でも・・・重要な点はそこではない。
メールの返事は無い。
電話しても出ない
連絡をしてこない。
この3点の質問に答えていない。
私の表情から読み取ったのか、智洋が話しを続ける。
「でさ、医者が親に言うんだ。『頭を打った訳ですし、大丈夫とはいえ3日間は安静にして下さい。小さな画面を見たり、長時間話しをする事は控えて下さい」って。お陰で、その場でスマホを取り上げられ、金、土、日の三日間は、どこも悪くないのにベッドの上だよ。まったく!!」
「はあ・・・」
吸っていた空気を、胸の底から吐き出す。
何それ、何それ、何それ!!
でも一応筋は通っているし、智洋が私にウソを吐くはずがない。
まあ、大丈夫ならそれで良いんだけど・・・
その時、チャイムの音が学校中のスピーカーから流れた。
「冬優花、チャイム鳴ったし、もう帰ろう」
「う・・・ん」
なんか釈然としない心境のまま、仕方なくうなずく。
「まあ、いろいろ言いたい事があるかも知れないけど、放課後にゆっくり聞くから。ね?」
「分かった」
これ以上どうする事もなく、大人しく智洋の後を追って教室に戻る事にした。
智洋が近くにいる。
最近では当たり前になっていたが、智洋の効果は絶大だった。
情緒が不安定になる、などという事は一切無い。智洋の姿が視界に入るだけで、心から安心できた。「いなくなって初めて分かる」とよく耳にするが、まさにその通りだった。
しかし、心に余裕ができるという事は、まだ消せていない想いも再燃させる。
つい、ノートを取るために黒板を見る度、桐山の背中を見詰めて手が止まってしまう。こんな私は、葵が言ったように「クソ女」だ。
ふと視線を感じその方向を向くと、バッチリ智洋と目が合った。智洋は左手の親指を立てると、ニカッと笑って前を向いた。
当然、気付いている。
もしかすると、日々の些細な行動から分かっていたのかも知れない。今はもう、直接葵から聞かされたはずだから、間違いなく知っている。
ああ、私はなんてバカなんだろう。
忘れてしまえば誰も傷付ける事などないし、今まで通りの平穏が、幸せな毎日が送れるというのに・・・
智洋の横顔を見詰めながら、自分の愚かさに泣けてくる。
智洋は私にとって一番必要で大切な人だ。
智洋は人一倍感受性が強い。強いからこそ、人に優しい。
そんな人を傷付けたくはない。
傷付いていないはずがない。
智洋がうつむく姿なんて見たくない。
平穏な日常が戻ってきた。
放課後は美優とともに、飽きもせず科学室のリザーブ席に陣取り、部活が終わる時間の前になると自動販売機に向かった。
部活終わりの智洋は、いつも通りスポーツドリンク片手に走って来る。今までも、何度か「別に走って来なくても」と言った事があるが、それでも変わらず走って来る。
待っていた私用にと、智洋が小さいペットボトルのフルーツミックスジュースを手渡してきた。
「今日も暑かったね。まだしばらくは30度を超えるそうだよ」
「へえ。もういい加減ウンザリ。あと何年かしたら、日本は亜熱帯になるんじゃない?」
「ハハハ、そりゃいい。年中海で泳げるよ」
私は緩めてあったペットボトルのキャップを外し、コクコクと喉に流し込む。ミックスジュースの甘ったるい香りが、口の中いっぱいに広がっていく。
「行こうか」
差し出される手。
その手をつかむ。
いつもと同じ放課後。
緩やかな坂道を、他の生徒たちが歩く反対側の歩道を歩く。
いつもと違い、智洋が踏み締めるように歩いている。
この現在に、いったい何の不満があるというのか。
この幸せが続くようにと、願うべきではないのか。
悩み続けていた私には、智洋の心の裏まで読み取る力はなかった。
まさか、一方的に選択肢を奪われるとは思ってもいなかった。