好き ということ。
◆ 遠い日の約束 ・・・

 非常階段の踊り場でズブ濡れになったいる私を見付けてくれたのは、捜しに来た美優だった。
 カバンも持たずに出て行った切り戻って来ない私を心配し、校内を捜していてくれたらしい。

 そして今、保健室で体操服に着替え、制服が乾くのを待っている。

 美優は何も聞いてこないが、何らかの非常事態が起きている事には気付いているのだろう。何せ、ズブ濡れで放心していたのだから。

「あのさあ・・・」

 不意に聞こえた声に、ビクリと身体が反応する。しかし、声は掛けたものの、次の言葉が出てこない。
 そんな沈黙を破ったのは、保健室の先生だった。

「何?この前の男子生徒、えっと・・・藤井君だったよね。彼とケンカでもしたの?」

 いきない確信に迫る先生に、美優が眉を立てて睨む。
「先生、ケンカしたとか、別れたとか、そんなの禁句ですよ、き・ん・く!!」

 「アンタが一番言ってるんだよ!!」と内心で毒づきながら、1時間ほど前の事を思い出す。

 意外にも、心は穏やかだった。
 現実感がまだ無かったのかも知れない。でも、それ以上に、「いったい、体のどこにこんなに涙が入っていたのだろう」とういうくらいに、本気で泣いたからだろう。

 椅子をクルリと回し、パイプ椅子に座っている私の方に向くと、先生は言った。

「まあ、先生としての立場から言うと・・・
 学生の本分は勉強だから、浮ついた気持ちが無くなって良かったじゃない。もうすぐ三年生だし、受験勉強頑張りなさい。
 ・・・て事になるんだけど」

 智洋が倒れた時と同じように、先生は続ける。

「同じ女性の立場から言うと・・・
 もし、ツマラナイ男なら、すぐに忘れて、もっといい男を探しなさい。でも、彼が本当に好きなら、すべてを賭けていいような男なら、どこまでも追い掛けなさい。一回や二回フラれても、あきらめちゃダメ。

 そんな人に出会うなんて、人生に何度もある事じゃないから・・・ね」

 先生の言葉に大きくうなずく。
 その通りだ。うなだれて泣いているヒマがあれば、また最初からやり直せばいい。

 私の隣で、美優も目をウルウルさせながら何度もうなづいていた。きっと、保健室に通い詰めるに違いない。


 学校の傘立てで使われていない感じのビニール傘を拝借した私は、乾いた制服を着て帰宅した。

 制服が乾くまで待っていた事もあり、すでに19時を回っている。キッチンでせわしなく動く母が、「何も無いなら、先にお風呂入ってくれる?」と言うので、カバンを自室に置いた私は風呂場に直行する。

 流れ作業のように身体を洗った私は、湯船にザブンと浸かる。
 身体が温まると、精神的に落ち着く。落ち着いてくると、思考力が増してくる。

 立ち昇る湯気を眺めていると、いろいろな事が脳裏に浮かんできた。

 私は、今までずっと智洋に甘やかされてきた。
 「好きだ」と告白され、好きでいてくれる事が当たり前だと思ってきた。その状態が永遠に、無条件に続くものだと思っていた。

 でも、それは違った。

 本当に大切な人と一緒にいたいのならば、やはり努力が必要だ。ただ何となく一緒にしても、何の発展性もない関係になるだけだ。
 それは、ごく当たり前の事から始まる。
 相手に対する思いやりであってり、優しさであったり、相手の気持ちを考える事であったり・・・

 そんな当たり前の事を、ずっと私は気付いていなかった。
 すべてを許され、すべてを受け入れられ、何もかも智洋任せで、私には何も無い。

 鼻までお湯に沈み、ブクブクと泡を立てる。

 これからは、私が追い掛ける。
 智洋と一緒にいるために、ふさわしい女になるために。

 それでも、夕食は喉を通らず、風呂から出たあと早々に自室にこもった。

 ベッドに寝転び、スマートフォンの画面を眺める。当然のように智洋からの連絡はない。さすがに、こちらから連絡する事はできない。あの雰囲気では、まず電話に出ない。メールも返信してはくれないだろう。

 スマートフォンを枕元に投げると、天井を見上げる状態で目を閉じた。

 おぼろげによみがえる思い出。
 何も考えないでも幸せだった頃の出来事。
 「好きだ」と言ってくれた男の子。
 純粋だったからこそ、ウソ偽りのない本当の想い・・・
 泣きベソをかきながらも、一生懸命にかばってくれた。

 ・・・あれは、誰?

 振り返る。
 振り向いて笑う。

 ハッとして起き上がり、クローゼットの奥にしまい込んだ段ボール箱を引っ張り出す。
 小学校、そして幼稚園時代のモノを入れた箱。上に物を重ねていたため、真ん中がへこんでいる。

 もう開ける事はないだろうと思い、何重にも貼り付けていたガムテープをはがしていく。中にギッシリ詰まった思い出の品々。それらを取り出して行くと、一番底に薄いアルバムが埋まっていた。
 表紙には「乃木坂第二幼稚園」の文字。幼稚園の卒園アルバムだ。

 もう10年以上も開いていないアルバムは、セロハンが張り付いてピリピリと音を立てながら開いた。

 そうだ・・・

 写真を見ているうちに、徐々に開いていく記憶。その記憶の中に、あの男の子の姿を見る。

 卒園前の1月、引っ越しをするとかで、幼稚園を変わって行った。だから、卒園記念の集合写真には写っていない。
 思い出に染まりながら、一枚一枚丁寧に写真を見ていく。それでも、たぶん、きっとどこかに写っているはずだ。

 それは、4ページ目の一番下にあった。
 私と手をつなぎ、真っ赤に顔を染めている男の子。

 ああ・・・

 その時、枕元に投げていたスマートフォンが着信を知らせた。
「もしもし、あ、桐山だけど・・・げ、元気か?」

「あ、ああ、そうか、それならいいんだけど・・・」

「おう、まあ、特に用事はない。そういえば、オレが通っていた幼稚園な、乃木坂第三幼稚園だった。じゃあ、ま、月曜日な」

 どうして・・・
 どうして忘れていたのだろう。

 アルバムの上に、ポタリと水滴が落ちる。
 引き締めた口から嗚咽が漏れる。
 頭から布団をかぶり、強く強く目を閉じる。

 私はバカだ。
 たぶん、智洋は気付いていた。
 きっと、智洋は知っていた。

 写真の中で照れる男の子。
 その表情、その笑顔は、間違いなく智洋と同じだった。
 智洋は今も変わらず、あの時と同じ笑顔で、あの時の約束を守っていてくれていたに違いない。だから、告白の言葉も「守る」だったんだ。それなのに。私は・・・!!

 布団をはね飛ばし、勢いよく起き上がった私はスマートフォンを握り締めた。光るディスプレイを見詰め、大きくうなずく。
 もう、待ってなんかいられない。どんなに拒否されたとしても、一歩前に足を出さなければならない。

 バクバクと激しく打ち付ける心臓を抑え込み、着信履歴から智洋の番号をコールする。

 何と言われるだろうか?
 もしかすると、無言で切られるかも知れない。
 それでも・・・

 スマートフォンの向こう側から聞こえてきた声は、私の想像していたいずれとも違っていた。
 感情の起伏がない女性の声で繰り返される。

「おかけになった番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上もう一度おかけ直し下さい。おかけになった──・・・」

 予想外の結末に絶句する私は、スマートフォンを握ったまま、しばらくアナウンスを聞き続けた。



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