好き ということ。
◆ 迷い道 ・・・
生きる意味を、自分の存在理由を考え始めたきっかけは、大好きだった祖父の死だった。
誰にでも優しくて、誰からも頼りにされ、いつも真っ直ぐに笑う祖父が大好きだった。
「あれが私のお祖父ちゃんなんだよ」って、自慢できる最高の人物だった。もう74歳になっていたけど、「せめて75歳になるまでは、人の役に立てるうちに恩返しがしたい」と口癖のように言っていた。
その言葉にウソはなく、地域のため、他人のために、献身的なまで尽くしていた。我が身をなげうって。
だけど・・・
秋祭りの準備をしている最中に倒れた。
肝臓ガン。
もう、末期だった。
手の施しようがなく、もう見守る事しかできなかった。
「本人には自覚があったはずです。こんな状態で普通に暮らしていたなんて、私には信じられません」と医者は言った。
でも、祖父がいなくなっても秋祭りは始り、いつもの年と何も変わらず終わっていった。
どうして・・・?
あんなに一生懸命尽くしたのに。
生命を削ってまで、あんなに皆のために頑張ったのに。
それなのに、どうして!?
その人がいなくなっても何も変わらないのならば、人はいったい何のために生きているの?
あんな祖父でさえいなくなっても、世界が何も無かったかのように回っていくのなら、こんな私なんかが生きていても仕方がないよね。
私の存在理由は何?
私がここにいる意味なんて何もない。
たかだか16年しか生きていない私に、答えなんて見付かるはずもなく・・・
親や友だち、先生や周囲の大人たちに挑戦的な言葉を投げ付けようが、こんな私に分かる事など何も無かった。
ループする思考。不安と焦燥感に飲み込まれ、当時の私は真っ暗な闇の中で完全に迷子になっていた。
「うきゃあああっ」
不意に髪をワシャワシャとかき乱され、驚いた私は素っ頓狂な悲鳴を上げた。勢いよく振り向くと、そこには日に焼けた笑顔があった。
「よう、何だよ用事って」
「桐山!!それってさ、セクハラだよセ・ク・ハ・ラ!!あーもー訴えてやるっ」
悪びれる様子も見せず、ケタケタと笑う桐山。そんな笑顔を至近距離で見せられると、ちょっと困ってしまう。
「で、部活前に呼び出すとか、マジで何の用だよ?」
視線を泳がせ、遠くを見ながら用件を確かめてくる。
「あ、う、うん・・・」
「まさか!!
智洋やめてオレに乗り換える相談?
いや、それはチョット待て。智洋とは親友だし、だけどまあ、恋はハリケーンだからな。アレだ、決闘で決めるか?オレたちは陸上部だから5千メートルで勝負するか?
ん、ああ?
志田、何でお前赤くなってんだ?」
桐山の鼻っ柱に、必殺の右ストーレートが炸裂した。
「お前なあ、鼻血ブーなんて小学生以来だぞ」
上を向いて鼻をつまむ桐山に、両手を合わせなが肩をすくめる。
でも、あれは桐山が悪い。少し心がザワついてしまった。
「で、本当は何の用だよ?オレ部活なんだけど・・・」
「うん、それがね・・・」
少しの時間、言葉が出てこなかった。
私の周りだけ、やけに酸素濃度が低い。
「美優がさ、桐山に話しがあるって。
あ、あの、あっち、新館の裏で待ってるから・・・」
桐山の顔から表情が消える。
「は?」
平坦で硬質的な声。
一変した桐山の雰囲気に、次の言葉が続かない。意味不明な緊張感。
それでも、美優は唯一の心を許せる友だちだ。あの真剣な表情を見た私が、その頼み事を放棄するなんてできるはずがない。
「えー・・・美優は見たまんま美人だし、こんな私に付き合ってるくらいだから性格も抜群に良いしい」
「知ってる」
「スタイルも良いし、顔なんかこんなにちっちゃいし」
「知ってる」
「それに、それに──」
「知ってるって言ってんだろ!!」
突然荒らくなった桐山の声に、ビクリと肩が震えた。そんな私を見た桐山は、我に返ったように軽く頭を下げる。
「・・・あ、ご、ごめん」
両手を身体の前で握り締め、黙って首を左右に振る。
桐山は普段のおちゃらけた表情に戻ると、新校舎の裏に向かって歩き始めた。
「じゃあね、志田ちゃん」
「うん」
「いよいよオレも彼女持ちかあ。うんうん、優しい世界だなあ・・・」
桐山は意味不明な言葉をつぶやきながら、校舎の角を曲がって姿を消した。
届かない後ろ姿。
授業中にコッソリと見る背中。
思わず伸ばした手。
一歩、二歩と歩いて止まる。
声にできない思い。
言葉にできない気持ち。
ああ、心が痛いよ・・・
桐山を意識し始めたのは、8月に入ってすぐ。ある出来事からだ。
あの日、いつものように教室からグランドを眺めていた私は、陸上部の練習が終わった事を確認すると同時に「うーん」と大きく背伸びをして教室を出た。
智洋との待ち合わせ場所に移動するために階段を下り、1階の廊下を歩いている時だった。
ドンッ!!と、突然肩に体当たりされ、身体を壁に叩きつけられた。
「痛っ」
何が起きたのか分からず痛みを堪える私の目に、Tシャツ姿の女子生徒が写った。平手 葵と、陸上部に所属する同級生たち3人。
「なんで、なんでアンタなんかが」
そう呟いて睨み付ける葵の横から、体格の良い陸上部員がグイと前に出てきた。ドンッと両手で突き飛ばされ、再び壁に背中を打ち付けた。
「ずっと葵は藤井君のことが好きだったのよ。1年の時からずっと、ずっと一途に藤井君のことが好きだったのに、なんで関係無い志田が!!」
違う部員が、今度は私の首元を壁に押さえ付ける。
「ずっと葵は泣いてるのよ?」
囲まれて逃げ場は無い。
夏休みの夕刻、薄暗い廊下には誰もいない。
「別れて」
葵が近付いてくる。
「ねえ、別れてよ・・・」
助けは来ない。
「私が先だったんだから、別れなさいよ!!」
「そん、そんなこと言われても・・・」
「───何やってんだお前ら?」
葵の後ろに誰かが立っていた。
驚いて振り返る陸上部員たち。
「オレは、何をやってるのかって聞いてるんだ!!」
本気で怒っている桐山を初めて見た。
私を庇うように間に入り込み、その場で仁王立ちする。
気圧されて全員が後ずさる。そして、ひとりが後ろ向きに走り始めると、一気に全員が走り出した。
「バカが」と吐き捨てた桐山が、ゆっくりと振り返る。いつもの意地悪そうな表情とは違う優しい目をして、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だったか?」
「うん」
「ま、まあ、アレだ。オレが職員室に用事があって良かったな」
「ありがと」
「お、おう。恩に着ろよ!!」
そう言うと桐山は、いつもと同じイタズラッ子のようにはにかむ。そして、私の頭に右手を乗せるとワシャワシャとかき乱した。
「ちょっ」
「ハハハッ、早く行け!!」
「行くわよ。アンタも早く職員室に行けば!!」
「へいへい」
校門に向かって歩き始める私。
職員室に向かって歩き始める桐山。
後か先か・・・
葵の言葉を思い出して振り返った。
そして、桐山の姿を目で追うようになったのは、あの日以降だ。
ひとりで行った祖父の墓参り。その帰り道で突然の夕立に降られた私は、仕方なく商店街のアーケードに駆け込んだ。
真っ黒に染まる空と低く垂れ下がった雲は、この雨の激しさを物語っている。
当分止みそうな気配はないし、この降り方では濡れて帰る気にもなれない。
「はあ」とため息を吐いた私の耳に、雨音に紛れて微かに聞こえた。それは弱々しく、今にも消えてしまいそうな鳴き声。
「ミヤァ」と。
周囲を見渡す。猫らしき姿はどこにも・・・あ、いた。
アーケードの一番端に立つ私とほぼ同じ位置。雨ざらしの白いポールに立て掛けられた段ボールの陰で、一匹の子猫がプルプルと震えていた。コンクリートから跳ね返る雨粒で、すでにピンク色の地肌が見えるほど濡れている。
私は膝を折り、驚かせないようにゆっくりと手を伸ばす。
「おいで」
猫撫で声とはよく言ったものだ。
それでも、子猫は震えるだけでピクリとも動かない。近付いてくるどころか、手を伸ばした事により、警戒心いっぱいの目を私に向けている。どうにかしてあげたいけど、どうにもならない。
あきらめかけていた時、その声が聞こえてきた。
「志田ちゃん、そんなとこに金は落ちてないぞ?」
「え、桐山!?なんで?」
「ふーん、猫ねえ・・・
つうか、お前なんで傘持ってねーの?
これ夕立じゃないから明日まで止まねえぞ」
「マジ?」
「大マジ」
ガックリと肩を落とす私を見て、桐山は高笑いする。
「まあ、それはそれとして、コイツを何とかするか。持ってろ」
私に傘を預けた桐山は、身を屈めて子猫を眺める。
「白、茶、黒・・・あのヌイグルミと一緒だな」
そういえば・・・
「こっちはリアルだけど、なっと」
桐山が動いたと思った次の瞬間、「ミャア」という鳴き声が目の前から聞こえた。
ヒョイと身を乗り出した桐山の胸に、ズブ濡れの三毛猫が抱かれていた。桐山はTシャツが汚れる事など気にもせず、手で軽く子猫の頭を撫でている。
「わあっ」
無意識に口から飛び出した感慨の言葉は、リアルヌイグルミに向けられたものだったのか。それとも、あの時と同じ笑顔で子猫を見詰める桐山に対してのものだったのか、私にも分からない。
本当に可愛い。
ニコニコと満面の笑みを浮かべて、リアルヌイグルミを撫でる私。撫で続けていたせいで、濡れていた身体もすっかり乾いている。
「ういやつじゃのう」
ゴロゴロと喉を鳴らす子猫は、つい30分前とは違い安心し切っていた。手に頭を擦り付けてくる。
「で、どうするつもりなんだ?」
思わず撫でていた手が止まり、子猫が怪訝そうに私を見上げる。
「やっぱりか・・・」
時間が止まっている私を見た桐山は、ヤレヤレといった調子で左右に首を振る。
「仕方ねえなあ」
「え?」
桐山は子猫を私から奪い取ると、両手で優しく抱き寄せた。そして、Tシャツの内側に入れると、まるで宝物のように両腕で抱え込む。
「オレ、猫チョー好きだし」
そうい言ってアーケードの外に飛び出した。
いきなりの展開についていけず唖然としていた私は、手にしていたビニール傘で我に返る。
「き、桐山、傘、傘!!」
桐山は止まる事なく、首だけ90度振り返った。
「オレは両手がふさがってんだぞ。持ってけ」
もう振り返る事はなかった。
雨の中、子猫を濡らさないように前傾で走り去る背中。
雨の向こう側に消えた後も、しばらくその方向を見詰め続けた。
風が強くなってきた。
アーケード内に雨が吹き込んでくる。
揺れる。
突然吹いてきた突風で、大きく揺れ動く。
雨は更に強くなり、激しくアスフアルトを叩き付ける。
真っ白だ。
消そうとしても、真っ白になる。
誰にでも優しくて、誰からも頼りにされ、いつも真っ直ぐに笑う祖父が大好きだった。
「あれが私のお祖父ちゃんなんだよ」って、自慢できる最高の人物だった。もう74歳になっていたけど、「せめて75歳になるまでは、人の役に立てるうちに恩返しがしたい」と口癖のように言っていた。
その言葉にウソはなく、地域のため、他人のために、献身的なまで尽くしていた。我が身をなげうって。
だけど・・・
秋祭りの準備をしている最中に倒れた。
肝臓ガン。
もう、末期だった。
手の施しようがなく、もう見守る事しかできなかった。
「本人には自覚があったはずです。こんな状態で普通に暮らしていたなんて、私には信じられません」と医者は言った。
でも、祖父がいなくなっても秋祭りは始り、いつもの年と何も変わらず終わっていった。
どうして・・・?
あんなに一生懸命尽くしたのに。
生命を削ってまで、あんなに皆のために頑張ったのに。
それなのに、どうして!?
その人がいなくなっても何も変わらないのならば、人はいったい何のために生きているの?
あんな祖父でさえいなくなっても、世界が何も無かったかのように回っていくのなら、こんな私なんかが生きていても仕方がないよね。
私の存在理由は何?
私がここにいる意味なんて何もない。
たかだか16年しか生きていない私に、答えなんて見付かるはずもなく・・・
親や友だち、先生や周囲の大人たちに挑戦的な言葉を投げ付けようが、こんな私に分かる事など何も無かった。
ループする思考。不安と焦燥感に飲み込まれ、当時の私は真っ暗な闇の中で完全に迷子になっていた。
「うきゃあああっ」
不意に髪をワシャワシャとかき乱され、驚いた私は素っ頓狂な悲鳴を上げた。勢いよく振り向くと、そこには日に焼けた笑顔があった。
「よう、何だよ用事って」
「桐山!!それってさ、セクハラだよセ・ク・ハ・ラ!!あーもー訴えてやるっ」
悪びれる様子も見せず、ケタケタと笑う桐山。そんな笑顔を至近距離で見せられると、ちょっと困ってしまう。
「で、部活前に呼び出すとか、マジで何の用だよ?」
視線を泳がせ、遠くを見ながら用件を確かめてくる。
「あ、う、うん・・・」
「まさか!!
智洋やめてオレに乗り換える相談?
いや、それはチョット待て。智洋とは親友だし、だけどまあ、恋はハリケーンだからな。アレだ、決闘で決めるか?オレたちは陸上部だから5千メートルで勝負するか?
ん、ああ?
志田、何でお前赤くなってんだ?」
桐山の鼻っ柱に、必殺の右ストーレートが炸裂した。
「お前なあ、鼻血ブーなんて小学生以来だぞ」
上を向いて鼻をつまむ桐山に、両手を合わせなが肩をすくめる。
でも、あれは桐山が悪い。少し心がザワついてしまった。
「で、本当は何の用だよ?オレ部活なんだけど・・・」
「うん、それがね・・・」
少しの時間、言葉が出てこなかった。
私の周りだけ、やけに酸素濃度が低い。
「美優がさ、桐山に話しがあるって。
あ、あの、あっち、新館の裏で待ってるから・・・」
桐山の顔から表情が消える。
「は?」
平坦で硬質的な声。
一変した桐山の雰囲気に、次の言葉が続かない。意味不明な緊張感。
それでも、美優は唯一の心を許せる友だちだ。あの真剣な表情を見た私が、その頼み事を放棄するなんてできるはずがない。
「えー・・・美優は見たまんま美人だし、こんな私に付き合ってるくらいだから性格も抜群に良いしい」
「知ってる」
「スタイルも良いし、顔なんかこんなにちっちゃいし」
「知ってる」
「それに、それに──」
「知ってるって言ってんだろ!!」
突然荒らくなった桐山の声に、ビクリと肩が震えた。そんな私を見た桐山は、我に返ったように軽く頭を下げる。
「・・・あ、ご、ごめん」
両手を身体の前で握り締め、黙って首を左右に振る。
桐山は普段のおちゃらけた表情に戻ると、新校舎の裏に向かって歩き始めた。
「じゃあね、志田ちゃん」
「うん」
「いよいよオレも彼女持ちかあ。うんうん、優しい世界だなあ・・・」
桐山は意味不明な言葉をつぶやきながら、校舎の角を曲がって姿を消した。
届かない後ろ姿。
授業中にコッソリと見る背中。
思わず伸ばした手。
一歩、二歩と歩いて止まる。
声にできない思い。
言葉にできない気持ち。
ああ、心が痛いよ・・・
桐山を意識し始めたのは、8月に入ってすぐ。ある出来事からだ。
あの日、いつものように教室からグランドを眺めていた私は、陸上部の練習が終わった事を確認すると同時に「うーん」と大きく背伸びをして教室を出た。
智洋との待ち合わせ場所に移動するために階段を下り、1階の廊下を歩いている時だった。
ドンッ!!と、突然肩に体当たりされ、身体を壁に叩きつけられた。
「痛っ」
何が起きたのか分からず痛みを堪える私の目に、Tシャツ姿の女子生徒が写った。平手 葵と、陸上部に所属する同級生たち3人。
「なんで、なんでアンタなんかが」
そう呟いて睨み付ける葵の横から、体格の良い陸上部員がグイと前に出てきた。ドンッと両手で突き飛ばされ、再び壁に背中を打ち付けた。
「ずっと葵は藤井君のことが好きだったのよ。1年の時からずっと、ずっと一途に藤井君のことが好きだったのに、なんで関係無い志田が!!」
違う部員が、今度は私の首元を壁に押さえ付ける。
「ずっと葵は泣いてるのよ?」
囲まれて逃げ場は無い。
夏休みの夕刻、薄暗い廊下には誰もいない。
「別れて」
葵が近付いてくる。
「ねえ、別れてよ・・・」
助けは来ない。
「私が先だったんだから、別れなさいよ!!」
「そん、そんなこと言われても・・・」
「───何やってんだお前ら?」
葵の後ろに誰かが立っていた。
驚いて振り返る陸上部員たち。
「オレは、何をやってるのかって聞いてるんだ!!」
本気で怒っている桐山を初めて見た。
私を庇うように間に入り込み、その場で仁王立ちする。
気圧されて全員が後ずさる。そして、ひとりが後ろ向きに走り始めると、一気に全員が走り出した。
「バカが」と吐き捨てた桐山が、ゆっくりと振り返る。いつもの意地悪そうな表情とは違う優しい目をして、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だったか?」
「うん」
「ま、まあ、アレだ。オレが職員室に用事があって良かったな」
「ありがと」
「お、おう。恩に着ろよ!!」
そう言うと桐山は、いつもと同じイタズラッ子のようにはにかむ。そして、私の頭に右手を乗せるとワシャワシャとかき乱した。
「ちょっ」
「ハハハッ、早く行け!!」
「行くわよ。アンタも早く職員室に行けば!!」
「へいへい」
校門に向かって歩き始める私。
職員室に向かって歩き始める桐山。
後か先か・・・
葵の言葉を思い出して振り返った。
そして、桐山の姿を目で追うようになったのは、あの日以降だ。
ひとりで行った祖父の墓参り。その帰り道で突然の夕立に降られた私は、仕方なく商店街のアーケードに駆け込んだ。
真っ黒に染まる空と低く垂れ下がった雲は、この雨の激しさを物語っている。
当分止みそうな気配はないし、この降り方では濡れて帰る気にもなれない。
「はあ」とため息を吐いた私の耳に、雨音に紛れて微かに聞こえた。それは弱々しく、今にも消えてしまいそうな鳴き声。
「ミヤァ」と。
周囲を見渡す。猫らしき姿はどこにも・・・あ、いた。
アーケードの一番端に立つ私とほぼ同じ位置。雨ざらしの白いポールに立て掛けられた段ボールの陰で、一匹の子猫がプルプルと震えていた。コンクリートから跳ね返る雨粒で、すでにピンク色の地肌が見えるほど濡れている。
私は膝を折り、驚かせないようにゆっくりと手を伸ばす。
「おいで」
猫撫で声とはよく言ったものだ。
それでも、子猫は震えるだけでピクリとも動かない。近付いてくるどころか、手を伸ばした事により、警戒心いっぱいの目を私に向けている。どうにかしてあげたいけど、どうにもならない。
あきらめかけていた時、その声が聞こえてきた。
「志田ちゃん、そんなとこに金は落ちてないぞ?」
「え、桐山!?なんで?」
「ふーん、猫ねえ・・・
つうか、お前なんで傘持ってねーの?
これ夕立じゃないから明日まで止まねえぞ」
「マジ?」
「大マジ」
ガックリと肩を落とす私を見て、桐山は高笑いする。
「まあ、それはそれとして、コイツを何とかするか。持ってろ」
私に傘を預けた桐山は、身を屈めて子猫を眺める。
「白、茶、黒・・・あのヌイグルミと一緒だな」
そういえば・・・
「こっちはリアルだけど、なっと」
桐山が動いたと思った次の瞬間、「ミャア」という鳴き声が目の前から聞こえた。
ヒョイと身を乗り出した桐山の胸に、ズブ濡れの三毛猫が抱かれていた。桐山はTシャツが汚れる事など気にもせず、手で軽く子猫の頭を撫でている。
「わあっ」
無意識に口から飛び出した感慨の言葉は、リアルヌイグルミに向けられたものだったのか。それとも、あの時と同じ笑顔で子猫を見詰める桐山に対してのものだったのか、私にも分からない。
本当に可愛い。
ニコニコと満面の笑みを浮かべて、リアルヌイグルミを撫でる私。撫で続けていたせいで、濡れていた身体もすっかり乾いている。
「ういやつじゃのう」
ゴロゴロと喉を鳴らす子猫は、つい30分前とは違い安心し切っていた。手に頭を擦り付けてくる。
「で、どうするつもりなんだ?」
思わず撫でていた手が止まり、子猫が怪訝そうに私を見上げる。
「やっぱりか・・・」
時間が止まっている私を見た桐山は、ヤレヤレといった調子で左右に首を振る。
「仕方ねえなあ」
「え?」
桐山は子猫を私から奪い取ると、両手で優しく抱き寄せた。そして、Tシャツの内側に入れると、まるで宝物のように両腕で抱え込む。
「オレ、猫チョー好きだし」
そうい言ってアーケードの外に飛び出した。
いきなりの展開についていけず唖然としていた私は、手にしていたビニール傘で我に返る。
「き、桐山、傘、傘!!」
桐山は止まる事なく、首だけ90度振り返った。
「オレは両手がふさがってんだぞ。持ってけ」
もう振り返る事はなかった。
雨の中、子猫を濡らさないように前傾で走り去る背中。
雨の向こう側に消えた後も、しばらくその方向を見詰め続けた。
風が強くなってきた。
アーケード内に雨が吹き込んでくる。
揺れる。
突然吹いてきた突風で、大きく揺れ動く。
雨は更に強くなり、激しくアスフアルトを叩き付ける。
真っ白だ。
消そうとしても、真っ白になる。