好き ということ。
◆ 好き、とういうこと ・・・
ゆっくりと瞼を開けると、真っ白い天井が目に入った。
一瞬どこにいるのか分からなかったが、頬に残る涙に気付いて思い出す。
ああ、そうか。私は・・・
涙の跡をぬぐい、両手で顔を覆う。
周囲を包む騒がしさに、すでに放課後である事を悟る。
何という事をしてしまったのだろう。
もう、葵は智洋に伝えてしまっているだろう。
智洋はどんな思いで、黒板に書かれていた文字を聞いたのだろうか。
いや、そもそも智洋は信じただろうか。
信じないかも知れない。
それならば、今まで通りに・・・
バカだ。
私は大バカだ。
そうじゃない。
例え、智洋が信じないとしても、黒板に書いた想いを葵に知られてしまった。私の本当の気持ちを知られてしまった。
そもそも、私は智洋を裏切っている。
私は裏切り者だ。
そう思った瞬間視界がにじみ、涙があふれてくるのが分かった。
泣いてはいけない。
私には、涙を流す権利なんて無い。
クルリと体勢を変え、窓の方向へと横向きになる。
「おはよう」
聞き慣れた声に、一瞬にして頭が真っ白になる。
「え・・・な、何で?」
夢かと思った。
夢であればいいと、本気で願った。
「おはよう」
再度聞こえてきた声は間違いなく本物で、顔を上げると、パイプ椅子に座った智洋が穏やかな表情で私を見詰めていた。
困惑する私を、いつもの優しい笑みを浮かべていた。
「目が覚めた?」
カーテンが開き、保健室の先生が私の様子をうかがってくる。
「ストレスか何かで体調を崩してるのだと思うけど・・・その様子だと大丈夫みたいね。それに・・・」
そこで言葉を区切ると、智洋の顔を覗き込む。
「王子様がついてるし」
「ちょ、先生!!」
智洋が顔を赤くして立ち上がる。
「あなたが寝付いた直後、彼が息を切らせながら飛び込んで来てね『冬優花は、志田は大丈夫なんですか!!』って。その後も、休憩時間ごとに来て・・・」
「先生!!マジちょっと困るんですけど!!」
焦りまくる智洋を見て笑ったあと、先生はクルリと背を向けた。
「ちょっと職員室に行ってくるけど、ここは保健室だから。ね」
「そんなことは!!」
「青春ねえ」
先生は智洋など意に介する事もなく、ケラケラと笑いながら保健室を出て行った。
しばらく扉の方を見ていたが、智洋はゆっくりとパイプ椅子に座り直した。
───聞いてる?───
───聞いてない?───
その声にできない疑問だけが、頭の中をグルグルと回る。
チラリと智洋の顔を見るが、その表情からは全く読み取る事ができない。
沈黙。
耐えがたい重々しい空気が、二人の間に漂う。
たぶん、聞いている。
聞いていて、智洋は言葉を探している。
別れの言葉?
もしかして、罵倒されるのだろうか?
仕方がない。
別れ話を切り出されようが、この場で激しく罵られようが、仕方のない事を私はしてしまった。
閉じていた智洋の口が、ゆっくりと開く。
それを見た瞬間に身体が硬直し、私はギュッと目を閉じた。
別れたくない。
勝手な事は分かっているけど、それでも・・・
智洋と離れたくない。
智洋が他の女の子と笑顔で話している姿なんか見たくない。
見たくないよ・・・
強く閉じた瞼の両端から大粒の涙があふれ、ポロリポロリと頬を伝っていく。自分がいけないのに、引き結んだ口から嗚咽が漏れてしまう。
「冬優花」
名前を呼ばれ、肩がビクリと反応する。
必死に涙を堪え、智洋がいる方向に顔を向けた。
「冬優花、何か勘違いしてるんじゃないか?」
私の目を真っすぐ見詰め、智洋は言葉を紡ぐ。その態度や雰囲気から、本当の想いを告げている事が伝わってくる。
「オレは冬優花が好きなんだ・・・
オレは冬優花が好きなんだよ。
オレの事が好きな冬優花じゃなく、そこにいる冬優花がまるごと好きなんだ」
智洋が穏やかな笑みを作る。
外から流れ込む風が大きくカーテンを揺らし、正面がら私に吹き付けた。
「もし仮に・・・
冬優花が他の誰かに心を奪われたからといって、オレの心は動かない。冬優花がオレ以外の誰かを好きになったとしても、オレが冬優花を嫌いになる事はない。
絶対にない──」
口がへの字になる。
バカだな私・・・
本当にバカだ。
眉がハの字になる。
なんでこんな・・・
ああ、ホントにバカだ。
智洋は立ち上がると大きく背伸びをし、ベッドの傍まで歩み寄って来る。そして、うなだれる私の頭にポンと手を置いた。
「男にはさ、誰もがぶつかる難問があるんだ。
それは・・・
心の底から人を好きになった時に、どう行動するか?
選択肢は二つ。
ひとつは、自分が好きな人を幸せにする。
もうひとつは、その人が幸せになるように見守る」
頭に置いていた手で優しく撫でたあと、智洋はゆっくりと扉の方に向かって歩き始めた。
「オレは、冬優花を自分で幸せにしたいし、守っていきたい。最初に言った方を選んだ。でも、たぶん涼太は・・・」
外から聞こえる掛け声に消され、最後の方が聞こえなかった。
「今日は、もう帰った方がいいよ」
扉に手を掛けた智洋が、振り返って笑顔を見せた。
私は黙ってうなずく。
足音が廊下を走っていく。
遠ざかる気配。
窓際にあるパイプ椅子に、智洋の姿を幻視する。
優しそうな笑顔を見せながらも、握り締めた手が小刻みに震えていた。
あの時、智洋は何を思っていたのだろう。
怒っていたのかな。
悲しかったのかな。
もっともっと、私に言いたい事があったのかな。
そうだよね、そうだよね。
込み上げてくる感情を抑え切れず、頭から布団を被り大声で泣いた。まるで、今まで流した涙が偽物に思えるくらい、ありったけの声を振り絞って泣いた。
「もう、このままじゃ電車にも乗れない」
トイレで顔を何度も洗いながら、鏡に写る自分の顔を見る。
しばらくして落ち着きを取り戻した私は、先生が戻ってくる前に保健室を出た。泣き腫らした真っ赤な目を見られないように、人気が無い廊下を選んでトイレに駆け込んだ。
真っ赤に充血した目。
腫れぼったいまぶた。
たった今、全力で泣いていた事が分かる。本当に、恥ずかしくて電車にも乗れない。そんなことよりも、こんな顔で帰ったら母が何と言うか・・・しばらく、どこかで時間を潰すしかない。
誰とも目を合わせないように下を向き、足早に廊下を歩いて校舎の外に出る。何も考えないように、何も頭に浮かべないように坂道を下る。
チラリチラリと目の端に写る陸上部員。今は、できるだけ見ないようにする。見えない事にする。
どうにか坂道を下り切った私は、駅までの道をひとりで歩いて行く。目指す先は、あのゲームセンター。あの前にある柱に隠れたベンチは歩道から死角になっていて、通りからは見えない。
途中の自動販売機で飲み物を調達し、両手で持ってベンチに座る。
タイミング良く誰もいなかった。
周囲にも知り合いの姿は見えない。
とりあえず安堵し、ペットボトルのキャップを回す。そして、3分の2くらいまで一気に流し込んだ。
柱に隠れ、クラスメートや学校の知り合いから離れ・・・渇き切っていた喉をうるおしたためか、少し落ち着きを取り戻した。
明日からどうすればいいのだろうか?
今まで通り?
でも、それはさすがにムリかも知れない。
ゲームセンターの自動ドアが開き、中から他校の制服を着た男女が出て来た。手をつなぎ、ハシャギながらすぐ横を通り過ぎて行く。自動ドアからあふれ出したゲームセンター特有の喧騒が耳を突き、反射的にそちらの方を向いた。
ガラスの向こう側には、まだあのクレーンゲームが設置されている。
ほんの2ヵ月ほど前の事なのに、ずいぶん昔のような気がする。でも確かに、あの日、あの瞬間が始まりだった。
人を好きになること。
それは、難解なパズルのようだ。
どうして、人は誰かを好きになるのだろう。
誰かを求めずにいられないのだろう。
私が最初に人を好きになったのは、幼稚園の時だった。
同じ幼稚園に通う男の子。
名前なんてもう忘れてしまった。
1歳年上の男の子にいじめられている私を助けようとして、ものの見事に返り討ちされた男の子。
「僕が守ってあげるよ」
そんなかっこいいセリフを口にしながら、いつもいつも負けていた。でも私は、自分のために戦ってくれているその子が好きになった。
理由なんて無かった。
ただ『好き』という感情があふれ出し、その子に「好き」だと告げられた。
私もその子を、「好き」だと言った。
真っ直ぐな想い。素直な心。
純粋に誰かを想う心。
いつからだろう。
真っ直ぐに気持ちを出せなくなったのは・・・
あふれる感情にウソを吐き、友だちにも本音で話さなくなった。できない理由を考えられるようになり、本当の気持ちを抑え込むようになった。
愛想笑いを覚え、駆け引きをするようになり、素直に好きだと言えなくなった。
いや、自分の本当の気持ちが分からなくなったのかも知れない。たった一言、「好き」と伝えればいいのに、遠回りをして見失ってしまう。
余計な飾りなんていらない。
究極の告白は、
「君が好きだ」「私も好き」。
・・・ああ、そうか。
だから、人は誰かを好きにならずにはいられないんだ。
だとすれば私は───
考え込んでいるうちに、すっかり辺りが暗くなっていた。日が落ちるとゲームセンター付近は、徐々に物騒になる。
まだ少し目が腫れぼったいが、もうこのベンチから離れよう。そう思って立ち上がると目の前に、茶髪にピアスをジャララジャラとぶら下げた男性が立っていた。
男性の横をすり抜けようとすると、私と同じ方向に移動して通せんぼをしてくる。ニタニタと下品な笑みを浮かべている。
今日は智洋も美優もいない。ちょっとヤバイかも知れない。
ガムをクチャクチャと噛みながら、近寄ってくる。
「おい、ちょっと付き合えよ」
「い、いえ、急いでいるので」
「ああ?お前の都合なんか聞いちゃいねーし。お前はオレに、大人しくついてくりゃいいんだよ!!」
手首をつかまれ、強引に引っ張られる。
「い、いや・・・」
「ちょっとゴメンなさいよ」
誰かが横から割り込み、私をつかんでいた手を振り払う。
「んだ、てめーはよ!!」
怒声が響くと同時に、その人物は両手で突き飛ばされた。
「・・・桐山?」
「よう、お前はオレが守ってやるから心配すんな」
ニカッと笑った桐山が、再び私の前に立つ。明らかにイラついている茶髪が、下から上へと舐めるように桐山を睨み付ける。
「ナメてんじゃねーぞ。やんのか、コラ!!」
ヒートアップする茶髪に、桐山は動じる事もなく睨み返す。
「ナメてんのはそっちだろ、こう見えてもオレは・・・ああ、警察!!」
「あ?」
桐山が指を差した方向に、茶髪は反射的に視線を移した。
「・・・逃げ足は速いんだよ!!」
桐山の手が、私の手をつかんで走り出す。
「え、ええ!?」
私の手を引きながら、人通りの多い方向へと全力で走る。
そんな桐山の背中を見詰めながら、鼓動がドンドン速くなっていく。