ダブルベッド・シンドローム
しかし、専務はココアのカップを置いて、傍に立っている私の、盆を持っていた手を、ひとつとった。
軽く手をとられただけで、握る握力もなく、指を絡めることもなかったが、それだけで私の手のひらは、じわりと汗ばんだ。
「菜々子さん。本当に、大丈夫です。」
この人にこんなことができたのか、それとも、この一日の買い物から焼き肉にかけての時間が、私たちの距離をこんなにも縮める結果となったのか、まるで分からなかった。
しかし、胸の鼓動はおさまらなかった。
照明にあてられ、専務の陶器のような輪郭が浮かび上がり、目がそらせないほど、綺麗であった。
「本当のことを言うと、僕は、こうして家で過ごす時間が、好きになりつつあります。菜々子さんと一緒にいると、安らぎますから。」
「え、ええ?」
「たしかに、菜々子さんが思っているように、僕は社長の良いなりになっている部分が多くあります。しかし、決して、そこに僕の意志がないわけでもありません。」
小さなことなど、どうでもよくなるような、目の前の王子様のような人の言葉に、夢でも見ているような心地になった。
彼は、嘘は言わないと思った。
控えめな言い方が、むしろその内容が真実であると示していた。
「専務、私も、今日一日、楽しかったです。ありがとうございました。」
「いえ、こちらこそ。」
専務は、私の手を離すタイミングを見失い、そして私も、あえてそのタイミングを作ってあげることはしなかった。
すると、専務はその手を、控えめに、ゆっくりと引っ張っていって、近づいていく私の顔に手を添えて、唇にキスをした。
唇の表面が触れただけの、軽いものだった。
「・・・すみません、嫌でしたか?」
「いえ、まさか、嫌だなんてことありません。」
「良かった。」
どういうつもりでキスをしたのか、それは分からなかったが、たしかに、キスをする雰囲気ではあったので、私は疑問を持たずに受け入れたのだ。
いや、彼から何かされることについて、もとより私が受け入れない、ということはないのだと思う。
専務が私と距離を詰めようとすることは、私たちが夫婦になるということを、彼が真剣に考えているということなのだから。