ダブルベッド・シンドローム
「あの、菜々子さん。」
「はい。」
一分ほど考える時間をとったあとで、専務は私の隣に座ったのだが、その表情はさらに歪んでいた。
脳みその中で使ったことのない部位ばかりを使ったのだろうか、彼は、答えを導きだすのに苦労はしたものの、その答えが正しいのか、煮え切らない様子であった。
「今まで、菜々子さんをどう思っているか、菜々子さんにどう思ってもらいたいか、それは僕の意識の外にありました。ですから、普段考えていなかったことを、すぐに考えつくことはできません。・・・しかし、菜々子さんを愛しているか、ということに、はい、と答えることは、今はまだ、できないと思います。」
「そう、です、よね。ええ、今はそうですよ。大丈夫です。私だって、今はまだ、そうですから。」
「どういう状態が、愛している、という感情を持っていることになるのか、僕はよく分からないのです。でも、その・・・僕は、一度だけ、菜々子さんにキスをしたことがありますよね。」
「え、ええ。そうですね。ありましたね。」
「あのときは、菜々子さんがココアを持ってきてくれて、それで・・・いえ、違いますね、その前に焼肉を作って下さったときでしょうか。そのとき、僕はそういう気分になりました。そのときふと菜々子さんと距離を詰めたいという気分になったんです。それは事実です。キスをしたときの気持ちには、父は関係ありませんでした。」
「専務・・・。」
「ですから、努力します。いえ、その努力というのは、菜々子さんを幸せにする努力ではなくて、菜々子さんを愛する努力です。僕はできる気がします。あのときの気持ちが、これからも僕の中で大きくなっていくのだとしたら、僕は菜々子さんを愛することができると思います。・・・それでは駄目でしょうか。」
「・・・いえ、」
「菜々子さん?」
「いえ、それでホントに、十分です。」
私の目元が、目の下から沸き上がってくる潤いへの許容量を越えていることに、私自身が気づいたのと同時には、専務も私が泣いていることに気づいていた。
それは彼の、驚き、焦り、と、表情が移り変わっていく様子を観察していれば、すぐに分かった。