ホテル王と偽りマリアージュ
私の頭の上の壁に右の前腕を預け、一哉が深い溜め息をついた。
ざっくりしたニットの襟元からチラッと覗いて見える彼の鎖骨が、目の前に迫る。


「一哉、あの……」


あまりに近い距離に、ドキドキが加速し始める。
妙に胸が苦しくて、思わず胸元で両手を握り締めた。
同時にギュッと目を閉じる。


「……ごめん。俺も飲み過ぎたかな。今の、忘れて」


小さな声が降ってきて、同時に一哉の気配が私から離れた。
恐る恐る目を開けると、一哉は私に背を向け、先に廊下を進んで行った。
やがてリビングに消えていく。


なにも言えずにその背を見送り、そのまま気が抜けてその場にしゃがみ込んだ。


一哉、なに言ってんの。
『妬ける』なんて、どういう意味でそんなこと言ったの。


その意味を探るべきか、彼の言う通り忘れるべきか、そんなことの判断も今の私には出来ない。
私は大きく息を吐き出しながら低い天井を見上げた。


要さんに言われて、もう一つ一哉に言えなかったことがある。


『俺は、フリで一哉に愛されても、虚しいだけだと思うけど。椿さん、それで幸せ?』


――虚しくなんかない。
だって私と一哉の関係は、そういう契約の上で成り立ってるんだから。
私と一哉の間に、もともと恋愛感情なんかないんだから。


期間限定で終わる契約だと割り切ってるのに、虚しくなる必要がどこにあるの。
不幸でもないし、幸せになる必要もない、ただの契約なんだから。
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