猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
「ラルドっ!?なぜ貴方がここにいるの?」

グレースの声が静かな廊下で反響する。ラルドは困惑した表情を作り首を傾けた。

「我々ふたりの豊かな結婚生活を願って祈りを捧げてくれている婚約者を、将来の夫が迎えに来るのはそんなに不思議なことでしょうか。それにほら――」

唐突にグレースの右手を取ったラルドが自分の両手で包むと、氷のようだったグレースの手に熱が戻ってくる。

「こんなに冷たくなって。婚礼前の大切なお身体になにかあったらどうするおつもりですか。まさか、僕ひとりで祭壇の前に立てと?」

あくまでも婚約者を心配しているといった体を崩さず甘やかな口調で問われれば、それが社交辞令だとわかっていてもグレースはうるさく鳴り始めてしまった鼓動を治められない。

「こ、これくらいどうってことないわ。白々しいことを言っても、わたしは騙されないわよ。手を、離しなさいっ!」

ラルドの手の中から抜いた右手どころか身体中が熱を持つ。グレースは赤くなっているであろう顔を隠すため、ラルドに先んじて廊下を歩き始めた。
不意にその肩が重くなり、ほわりとした温もりと微かなカモミールの香りがグレースの身体を包み込む。

「それ以上お身体を冷やされると、本当に毒ですよ」

ラルドが着ていた上衣をグレースに着せ掛けたのだ。
背は高いが細身だと思っていた彼の上着は、すっぽりとグレースの身体を覆ってしまう。紺色の生地で袖口や裾などに銀糸を使って蔦の刺繍が施されたそれは、晩秋の夜の空気を遮ってくれる。

「……ラルドが風邪をひいてしまうわ」

「大丈夫です。これでも一応、男ですから」

グレースの隣に並ぶと、まだ足の痺れが完全には消えずにいた彼女の歩幅を合わせて歩く。ふたり分の足音以外、なにも聞こえない神殿の廊下。心臓の音まで彼の耳に届いてしまいそうな沈黙に耐えられなくなった。

「わたしは……」

ラルドがこちらに首をひねったのはわかったが、グレースは顔を正面に向けたまま続ける。

「わたしは月に幸せな結婚など祈らなかった。貴方とは無理だとわかっているもの」

グレースは至極真面目に言ったつもりなのに、なぜか隣からくくっと抑えた笑い声が聞こえてきた。

「なにがおかしいの?」

「いえ。僕は意外に、貴女との生活はおもしろそうだと思ったので」

無責任なことを言うラルドに腹が立つ。

「楽しいだけでは、幸せな夫婦とは言えないわ」

「では、夫婦の幸せとはなんでしょう」

低く押さえた声音で問われ、グレースは口をつぐむ。
互いの存在をなによりも一番に想える。それがグレースの理想とする夫婦のあり方だ。だがそれをラルドに望むことは不毛だとよくわかっている。だから――。

「貴方にもわからないことがあるのね。そんなこと、自分で考えなさい」

再び訪れた沈黙は、マリたちが待つ控えの間まで続いた。

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