猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁


勢いとはいえ、夫に手を上げてしまったことは、淑女としてあるまじき行為。それはグレースも承知している。だがあのときは、どうしても衝動を抑えられなかった。

ラルドがグレースを妻にするのは、彼女の身体に流れる王家の血が必要だからだと、初めから言われていたことだ。それなのに、なぜ自分はあれほど憤りを感じたのか。

手の平を眺めていたグレースは、マリからジムの行方を尋ねられて顔を上げた。

「夕飯をあげたらふらりと出かけてしまって、まだ戻ってこないの。誰かのところで道草を食っているのかしら」

「そうなのですか。旦那様もお帰りになられませんね」

マリが閉まっている扉に目を向ける。ジムを探しに行くべきなのかを迷っているようだ。

「あのコなら大丈夫。そのうち帰ってくるでしょう。わたしがもう少し起きて待っているから、マリは先に休んでいいわよ」

「ですが、まだ」

「気にしないで。あの人はきっと帰ってこないわ。……少しね、独りになりたいの」

主人たちより先に休むわけにはいかないと躊躇うマリを、グレースは追い払うように部屋から去らせた。

独りきりになった深夜の部屋は、大勢の人間が暮らす屋敷だというのに静まりかえっている。婚礼の日以来それを感じなかったのは、常に夫の存在が隣にあったせいだ。
知らず知らずのうちにその熱の大きさに慣れてしまったグレースは、寝台でジムの小さな躰を抱えて眠っても、春だというのに肌寒さを覚える。それでも温もりがないよりはずっといい。

グレースは黒猫の帰りを待ちきれず、肩掛けを羽織るとそっと扉を開け、まばらに灯りのともる廊下に出た。
優秀なこの屋敷の使用人たちは、小さな物音にも気づいてしまうかもしれない。足音をたてないよう慎重に歩く。
ここにきてから、ジムはまだ一度も外には出ていない。どこかの部屋に潜り込んで、出られなくなっている可能性も考えられた。

廊下を進んでいくと、使用人が使う狭い階段から夜の冷たい空気が降りてくる。それに猫の鳴き声が混じっているような気がした。
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