猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
「お、おい。まさかあの姫君……」

アントニーがなにを想像したのかはすぐにわかった。わざわざ説明するのは正直いって面倒だと思うラルドだが、妻の名誉のためにも、きちんと誤解を解かなければならない。

「彼女の飼い猫の名です。しっかり抱いて眠っていて、退かそうとすると文字通り手が出てきて、ご覧の通りの有り様で」

ラルドが見せた左手の甲に走る三本の赤い線は、数日前にジムに引っかかれたもの。右手の人差し指には噛まれた痕もある。大昔、家に猫がいたことがあるというドーラが慌てて処置をしたが腫れ上がり、仕事にも支障を来したほどだ。

政の進め方、敵を陥れる方法、どっち付かずにいる者をこちら側へと引き込む術。王宮での立ち回り方のすべてをラルドに教えたのは父のオルトンだったが、こんな場合どうしたらよいのかまではきっと知らないはずだ。

もしオルトンがこじれた夫婦仲の上手い解決方法をわかっていたのなら、ヘルゼント伯爵家は今とはまったく違う状況になっていたに違いない。

深く重たいため息を落とすラルドの様子に、アントニーはなぜか「ほう」と関心を示した。

「君にも手に負えないことがあったとはな。不敬を承知で言わせてもらうが、王女という立場のわりにいままで存在さえ希薄だったグレース様は、思いのほか強者らしい」

なにをいまさら、とラルドは顔を歪める。ほかの女性と同じように扱おうとしても、グレースの言動はいつだってラルドの予想の範疇を大きく超えてくるのだ。

嫌なわけではない。ときおり対処に迷う。調子を狂わされる。ただそれだけのこと。
最初からそうしたように、交わした契約を盾に組み敷けばいい。その気になれば猫だとてどうにでもできる。グレースの意思など、もとより尊重などしていなかったはずだ。
それなのに、自分はなにをそんなに思い悩む必要があるというのか。

グレースとの結婚がラルドの生活にもたらした変化は、本人に自覚のないまま少しずつ、しかし確実に彼の意識にも影響を与え始めていた。

「ほら。ラルドにそんな顔をさせることができるのは、きっと奥方くらいだろう?」

「そうですね。あの人は……違うのかもしれません」

互いの打算により結ばれた偽りの夫婦とはいえ、誰かの待つ家に帰るという安心感。ラルドの腕の中で、躊躇いながらもみせる陶然とした表情。朝、目覚めたとき隣にある体温。

そんなものが当たり前になってきていた自分に戸惑いを覚えるラルドの手から、アントニーは酒杯を取り上げてしまった。

「結婚とは予想以上に人を変えるらしい。とてもラルドの口から出た言葉とは思えん」

初めて聞いた憎らしいくらい完璧な従弟の弱音とも取れる発言に、アントニーは目を丸くする。

「やはり呑みすぎのようだ。早く帰ってグレース様と仲直りをしろ」

またもや簡単に言ってのけた。

「せっかく身軽な身分になられたんだ。いい季節になってきたから、どこかへ連れ出して差し上げるのはどうだ?」

「外へ?」

「景色のいい場所で抱きしめて熱い口づけでも交わせば、たいがいのことは許してもらえるさ」

独り者のアントンーからなにやら適当な助言を受け不審感を募らせるが、思い返せばグレースは三十年間王都から出たことがないのだと気づく。
ラルドは酔いの回る頭で、自分の公務の予定を思い出してみることにした。
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