猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁


「なにをしているんですかっ!?」

突然腰の辺りを引かれて、グレースの身体が僅かに宙に浮く。背中に当たった感触と一瞬にして変わった彼女を取り巻く香りが、胴に回された腕の持ち主を教えた。

「死にたくなるほどこの結婚が、僕が嫌なのなら、いますぐ契約を取り消しても構わない。だからバカなまねは……」

「なんのこと?」

耳元で息を荒くして言われても、グレースには意味がさっぱりわからない。

「わたしはただ、花びらを……」

見上げてもすでにそれは空中にはなく、落ちてしまったのかと視線を下げる。その足元を見たグレースの腰が砕け落ちた。あと一歩前に出れば、そのまま湖へと真っ逆さま。そんな際どい場所に自分が立っていたと、今初めて気づいたのだ。

ラルドの腕にしっかり支えられた身体の耳裏に、深いため息が吹きかけられる。

「僕を退屈させないという貴女の姿勢は大変ありがたいのですが、こんな調子ではこちらの身が持たない。もう少し穏やかな方法でお願いできませんか」

「わたしは」

厭味な物言いに、グレースは腰に回されているラルドの腕を身体から剥がそうとするが外れない。それどころか一層力を強められ、崖っ縁から引きずるように遠ざけられる。だがグレースの胸が苦しいのは、そのせいだけではなかった。

「わたしは貴方を愉しませる玩具じゃない」

グレースは、なおも離されない腕に触れた指先に決意と力を込め、袖の上から爪を立てる。

「ましてや、飾りにも、子どもを残すためだけの道具にもなりたくない」

「グレース?」

不審のこもる声音がグレースの耳朶を叩く。グレースは緩められた腕から抜けて、身体の向きを変えた。

「ラルド。貴方、さっき契約を解除しても構わないと言ったわね?」

「それは……。離縁したいということですか」

あからさまに不機嫌な声。グレースは顔を上げられないまま、ゆるりと首を横に振り否定する。

「違うわ、逆。内容の改定をお願いしたいの。今後わたしに子どもができなくても離婚はしない、と」

なにかを言おうとして息を吸ったラルドを、グレースは視線を上げることで制した。

「その代わり、何人妾を持とうがどこに子どもを作ろうが、絶対に文句は言わない。だからわたしを『ヘルゼント伯爵夫人』のままでいさせて」

真っ直ぐに見据えた先にある、ラルドの青い瞳が曇り、唇の片端が皮肉につり上げられた。美しくも冷たい笑みが、覚悟していてもグレースの心を握りつぶす。

「なぜ?そこまでしてしがみつくほど当家の名は魅力的ですか」

予想通りの返答で、かえってグレースの気持ちは吹っ切れる。一度目を閉じ深呼吸してから背筋を伸ばし、艶然たる微笑みでラルドの問いに答えた。

「ええ、そうよ。わたしには貴方の妻の座が必要なの。これから先ひとりでも多くの女性が、わたしみたいに不本意な結婚を強いられずに済むように」
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