恋のはじまりはスイートルームで



がっつり系の庶民派洋食店だから2人きりでもムードなんてないけど、課長の顔を見ながら食べたので余計においしかった。課長も久しぶりの日本のレストランの味に顔を綻ばせて、とても上機嫌だからなのか「この後、ちょっと飲みに行くか?」と誘ってきた。もちろん一も二もなく頷いて、流れ着いたのが駅前の高層の佇まいもラグジュアリーな外資系ホテルのバーだ。

「参ったな」

課長情報ではゆったり飲めるオトナの空間とのことだったけれど、生憎今年はテレビで紹介されたばかりらしく、席はボックスもカウンターも予約で埋まっていて、ムーディな空間に似つかわしくないくらいのざわめきで溢れていた。

このバーは課長が入社したばかりの頃、『大人になった記念』に思い切って一人でデビューした場所なんだと言う。チャージ料が想像よりも高くついて会計のときに冷や汗をかいたらしい。

職場だとプライベートなことを滅多に明かさない課長がそんなことを話してくれたから、本当はここで課長お気に入りの景色を一望しながら、もっといろんな話を聞いてもっといろんな課長を知りたかったけど……

「残念だけど今日は帰りましょっか」

課長の横顔に落胆と疲れた雰囲気を感じ取って申し出ると、課長も「そうだな」と頷く。さすがに昨日帰国したばかりの人を次の店が見付かるまで連れ回すわけにはいかないから、今日はこのまま帰るしかない。でも2人きりでこんな素敵な場所に来られるチャンスなんてきっともう二度とないだろう。

「……夜景、見られなくて残念だなぁ」

あまりにも名残り惜しくて呟くと、課長が立ち止まった。それからいくらか迷った素振を見せた後、懐から何かを取り出した。

「じゃあ仕事頑張ったお前にご褒美やるよ。見て来い。夜景が見下ろせる特等席だ」

手渡されたのは部屋番号付きのキー。何に驚けばいいのかわからないほど驚いて絶句していると、そんな私を見て愉快そうに唇を吊り上げた。

「心配しなくても俺はこのまま帰るから。毎年予約の争奪戦になる湾岸側の夜景をゆっくり楽しんでくるといい」

この状況の意味が全然わからないのに、私を大混乱させたまま課長は去っていこうとする。

「ちょっと待ってください!……あの、ひょっとしてこれ、私への壮大な嫌がらせですか?ロマンチックなホテルに一人寂しく泊まるなんて、みじめにも程があります!」

まるで私の言葉が心を抉るナイフであったかのように、途端に課長は顰め面になる。

「お前のためにとっておいた部屋なんだから、みじめって言われるとさすがに傷つくだろ」

私の、ため?

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