幸福に触れたがる手(短編集)
十時過ぎ。自宅マンションに帰り着いて、彼女の部屋に行くかどうか迷ったが、昨日の謝罪をしておきたい。
さすがに終電までには帰って来るだろうし、部屋で待つことにした。
合鍵でドアを開けたら驚いた。
灯りがついている。彼女のパンプスもある。
何時から合コンが始まったのかは知らないが、そんなに早く終わって解散することなんてあるのか?
不思議に思いながらリビングに入ると、彼女はいつも通りDVDを再生したままソファーで丸くなって眠っていた。
今日のDVDは何年か前に出た映画だ。
テーブルの上には皿や茶碗が置きっぱなし、ソファーの横に置いたゴミ箱はティッシュでいっぱい。こんなこと、今までなかった。
そして何より驚いたのは、寝ている彼女の睫毛や頬が濡れ、目尻に涙が残っていることだった。
もしかしてこいつ、合コンに行かなかったのか? いつも通りの時間に帰って来て、飯食いながらDVD観て、ソファーでうたた寝して……。
こいつの性格上、どんなことがあっても自分の感情を押し殺すだろう。そしてこうやってひとりで泣くんだ。俺の知らないところで……。
早く帰って来れば良かった、と。数時間前の自分を恨んだ。
奥歯を噛み締め、寝ている彼女の頬を撫でる。
彼女はいつも通り悩ましい声を出してさらに背中を丸める。
「知明、話そう、起きれるか?」
「ん、う……ん、とーまさん……」
当麻、というのは再生中の映画で演った俺の役名だ。また睡眠学習をしたらしい。
「う……うう……もう、やだ……」
言いながら、彼女の目尻から涙が流れた。
彼女の目がゆっくりと開いて、俺を視界に捉えると、瞬間くしゃりと顔が歪んで、涙が溢れ出す。
彼女の泣き顔を見たのは初めてだった。
「……知明」
「……ん、あれ、篠田さん。お帰りなさい」
数秒前まで泣き顔だったのに、覚醒したのか、いつも通りの彼女に戻る。でも、今度は俺が泣いてしまいそうだ。
彼女がパーカーの下に「ポジティブ」と書かれた面白Tシャツを着ているのが見えても和めないくらい、胸がぎゅうっと締め付けられた。
「知明、ごめん。ほんとごめん。ガキみたいな嫉妬して、おまえを傷付けた」
「嫉妬……?」
「おまえが自分の感情を押し殺すやつだって分かるのに……。言い返してこないやつだって知ってるのに、ひでえこと言ってごめん」
「……」
「だけど、陰で泣くな。少しずつでいい、頼むから、思っていることを言ってくれ」
目頭が熱い。口元も震えている。
どうしようもなく悲しくなって、彼女の身体を強く抱き締めた。
彼女の髪からは嗅ぎ慣れた香りがして、それを頼りに、泣き出すのを堪えた。