ビルに願いを。
そっとバスルームを出て、ドアを後ろ手に閉めた。バッグはデスクの上にあるけれどここからは見えなくて、明るく電気のついた部屋の方に踏み出せない。
「杏? 準備できた?」
部屋の方から声が聞こえて、緊張する。
「ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったの。部屋に帰って来ると思わなくて、1人で寝るつもりで」
ドアに背をつけたまま早口で必死で謝った。せっかくいろいろ教えてくれたのに、ビッチだって思われたに違いない。
あの驚いた顔。丈はそんなつもりだったはずないから、きっと軽蔑された。
「何言ってんの?」
言いながら丈がこちらにやって来る。
「動作テストするから呼びに来た。部屋に電話しても出なかったから。荷物これだけ? 行こう」
不愉快そうな声。ドアから出てお互い何も言わずに静かにエレベーターに乗った。
丈はホテルフロントまで降りると、1階には行かず、ホテルの人に声を掛けて扉の向こうにある別のエレベーターに向かった。
上下へのボタンがある上のパネルに手をかざし、何か打ち込む。
「秘密のエレベーター?」
「秘密? ああ、そうか。1階から来た?」
「もちろん」
「これ、55階のラウンジへの直通エレベーターなんだけど。アッパー各階とホテルフロントでも実は止められる。いちいち降りて登るの面倒だろ」
登録済みのVIPだけ使える機能ってことか。こういう時、とつぜん丈を遠く感じる。ものすごい特権を当たり前みたいに受け入れている精神。
「変わってるよね」
「え? 私?」
「女の子ってこういうの聞くと普通目が輝くんだけど。杏は嫌な顔する」
「嫌な顔というか、驚いただけ」
「俺も最初は変な感じがしたよ。でも慣れた」
投げやりにそう言うと、あとはまた2人とも黙ったまま28階に向かった。
オフィスへのドアにI.D.カードをかざして奥に開いたドアを支え、先に行くように私を促す。
通り過ぎようとしたら「ごめん」と呟く声が聞こえて立ち止まる。
「麻里に呼んできてもらおうかと思ったけど、いなかったんだ」
私の少し後ろから、丈が続ける。
「キーは2つ持ってる。俺、別に襲おうとか思ったわけじゃないから、本当に。見てごめん」
見たよね。何も答えることができなくて、私は「うん」とかなんとか言ってぎこちなく歩き出した。今更恥ずかしさが襲ってきて困った。