ビルに願いを。
「杏?」
たくさんの声を頭から追い出して、慌てて質問する。
「あのね、今日は暑くなるみたいだけど、暑いのは大丈夫?」
「……別に平気だけど」
「カリフォルニアと違って、こっちは湿気があるから。外に出慣れてないと日差しもきついかもしれないけど。あ、でも私日傘持ってるから嫌じゃなければそれを使ってもいいし。でも変かな、男の人には。それとも」
早口でいろいろ考えてるのを、小さく、でもはっきり遮られた。
「俺、子供の頃は東京に住んでたから」
ああ、そうか。行ったり来たりしていたと、麻里子さんに聞いた気がする。
「で、なんで変な顔してたわけ。スニーカーじゃなくちゃダメとかドレスコードあった?」
自分と私を見比べて、いぶかしげに聞く。そんなことはない。私は普段のオフィス仕様よりもカジュアルに歩ける恰好だけど、丈は普段からセンスのいいきれいめカジュアルだ。
流してくれる気はなさそうなので、機嫌を損ねないうちに本当のことを言っておこう。
「女の人と来ると思わなかったからびっくりしただけ」
「走ってきたからドア開けて待っててあげただけだけど。なんだよ、やきもち?」
下世話な勘違いに気づいて、しかも変なことを言われて、かーっと顔が熱くなりながら「違うから」と言い訳した。
「冗談。誰も連れ込んだり襲ったりしてないよ。こないだのこと根に持ってる?」
ため息をつくような言葉の後、「清く正しく暮らしてます」と歌うように言いながら先に自動ドアに向かって歩いて行く。
そうだよね、ビル内引きこもりなのに、女の人と知り合うわけもない?
いや、アッパーフロアの人を狙っている女の子達がいるって麻里子さんが言ってたよ。間違えたふりしてエレベーターに乗ってきたりするって。
さっきの人もそういうタイプかもね。待ち合わせた私を見て今日のところは手を引いただけとか。次に会ったらまた声をかけられるのかも。
「杏?」
ドアのほうで丈が振り返る。
なんでもいいや。名前を呼んでくれるようになったこの人と、今日一緒に歩くのは私だ。