恋愛生活習慣病
積極的に体を動かし十分な睡眠を取りましょう。

act.10

◇◆◇

「おかえり。ごはんできてるよ」

それともお風呂が先がいい?お湯もすぐに溜められるようにしてるよ。

家に帰ると、必ず笑顔で迎えてくれる彼は今日も完璧。

バッグを彼女の手からそっと取り上げていったん下に置き、背後に回ってコートを脱がせ丁寧に抱えると、すっと腰を下ろし玄関に脱ぎ散らかしたパンプスを揃えてくれる。
廊下というにはたった数歩の距離だけど、先を歩いてリビングのドアを開けてくれるのもいつものこと。
部屋は美味しそうな煮物の匂いで温かく満ちていた。


「わー、今日のご飯は何?煮物かな。いい匂い」

「うん。肉じゃがだよ。先にご飯にする?」

「ううん、お風呂入ってくる。今日は忙しくて疲れたあ」

「お疲れ様。ゆっくりしておいで」


部屋に着替えを取りに行っている間に浴槽に湯を張ってくれるのもいつものこと。
浴槽の蓋の端に、柚子の香りのバスボムが置いてあった。
疲れていると言ったからだろう、炭酸が出るタイプの入浴剤だ。
お風呂でさっぱりしてほかほかの体でダイニングに行くと、焼き立ての魚がテーブルに置かれたところだった。

肉じゃがに焼き魚、酢の物にレンコンのきんぴら、青菜のお浸しに味噌汁と今晩のメニューは定番和食らしい。
昔、本気で料理人になろうと思ったことがあると言うだけあって、彼の作るごはんはとても美味しい。
限られた食費の中でどうやっているのか不思議なほど品数も多く、盛り付けのセンスがまたいいので、毎食の食卓がすごく楽しみだ。
おかげで彼と暮らすようになってから外食の回数はぐんと減った。
一人分が二人分に増えたのに食費は以前とそう変わっていない。
体調や肌の調子がいいのも、バランスのいい食事を摂るようになったからだろう。

土鍋で炊いたという、つやつやのお米も、出汁が効いた青菜のお浸しも味のしみた肉じゃがも、どれもが美味くてにこにこしていると「髪、また乾かさなかったの?」と小言を言われた。
冷えると風邪をひくだろと毎回注意されるのだが、お風呂を上がってすぐにドライヤーを掛ける気にはなれず、タオルでくるんでしばらく放っておくのが常だ。


「うん、面倒で。長いから乾くまで時間がかかるんだよね。ばっさり切ろうかな」

「だめだよ。似合ってるのに。これ食べたらすぐ乾かそう」


お風呂上りのこの会話も行動も最近は定番になりつつあった。
彼女が食後にビールを飲んでいる間に、彼は食器を片付け、終わるとドライヤーを片手にリビングのソファでごろごろしている彼女の元にやってくる。
ソファに座ると彼女を彼の長い脚の間に降ろし、水分で重くなったタオルを取り、毛先を中心にラベンダーの香りのアウトバストリートメントを付けてから目の粗い櫛で丁寧に梳く。
ドライヤーを掛けるのはそれからだ。

彼は几帳面な性格だ。

見かけが派手で年若いせいでそうは見えないのだけど、一緒に生活するうちに分かった。
彼は何かをする時に手を抜かない。どんなことでも、ちゃんと心を込めてやる。
でもそれは。

(仕事だから、だよね)

彼は頭皮に熱風が当たらないようにドライヤーを動かしながら、絡まった髪を引っ張らないように慎重に丁寧に乾かしてくれる。
こうして手を掛けると翌朝のヘアスタイルの仕上がりが全然違ってくることを、彼女は最近知った。

恋人に対しても、彼はこんな風にお姫様のように大切に扱ってくれるのだろうか。

彼と彼女の間に恋愛感情は存在しない。

友情もない。きょうだいでも親戚でもない。
賃金の支払いもないから雇用主と従業員でもない。
彼女が衣食住を提供し、彼が家事とその他雑用を行う。
タイミングと勢いで始めたこの関係は世間で言うところの『ヒモを養う』というのに一番近いかもしれない。


「はい、終わったよ」


冷風で仕上げをした髪はさらさらで艶々だった。
自分ではこんな風にはならない。
彼がいなくなったら、すぐにアホ毛だらけの髪に逆戻りするのは目に見えている。


「ありがと」


彼の顔を見るとなんだか切ない気分になった。こんな日常はいつまで続くのだろう。

傍にいてもお互いの境界線を踏み越えない絶妙な距離間の彼との関係は、冬の朝の布団の中や、ぬるめのお風呂に浸かるのに似ていて、いつまでもそこに留まりたくなる。

ずっとずっと、この生活が続けばいいのに。永遠に、ずっと。


「……」


この素敵なヒモがいない生活なんて、もう考えられない。
立ち上がって振り向くと、彼女はソファに座る彼に思わず抱きついた。


「ごめん、抱き付きたい気分なの。ちょっと体貸して」


体を貸せだなんてどんなセクハラだよと心の中で自嘲したけど、彼は小さく笑うと、ぎこちなく抱き付く彼女を膝の上に乗せて、ぎゅっと抱きしめてくれた。

「僕の元に帰っておいで。そしたら毎日抱きしめてあげる」


◇◆◇


…………ってのが理想の妄想、昨晩迷走、記憶は喪失、起きたら衝撃、ここどこ私は誰だyo!

などと変な脳内ラップをしてしまうくらい私は動揺している。
見慣れない部屋のベッド上で、隣には上半身裸の眠れる美形男子。
そして私はキャミソールとパンツのみの下着姿。
この状態。
昨夜、私たちに、何かあったんだろうか。

……昨夜の記憶がナッシング。

目をつぶって先ずは深呼吸。それから確認。
まず、体の感覚。
体は気怠いけど……股の奥に違和感はない。

っていうか、何かあるはず、ない。

改めて自分の姿を見たら、懸念される色っぽい一夜の過ちは無い、と断言できた。

これ、ないわー。萎えるわー。

身を包むのはグレーのカップインキャミソールにレースも何もない履き込んだパンツ。
しかも腕も足もムダ毛ボーボー。
顔はドロドロで、口はネバネバ。髪もぼさぼさで肌もべたついてる。

こいつどこのおっさんだよ!
……私だよ。

私が男なら、こんな有様の女、即げんなりして背中を向ける。

ホッとするやら残念やらで、ふと胸元を見た。
そしたら昨日まではなかった赤い痣のようなうっ血斑が数個、キャミソールの下に見え隠れしている。
どこかでぶつけた覚えはなく、皮膚病でもないと思う。

ていうかこれどう見てもキスマ……-ク……。



……に、逃げよう。


「どこに行くの」


体を起こした途端、手首をがっしり捉えられました。…ああ。


「おはよう、李紅」

「……お、おはようございます、冬也さん」


手首を掴んだままベッドに起き上がった冬也さんは、反対の手で前髪を掻き揚げた。ただそれだけの仕草なのに無駄に色気がダダ漏れている。


「逃げるつもりだった?」

「……」


だってこの状況をどうしろと。
ちょっと頭を冷やして物事を整理する必要があるよね?ね?ていうか顔見れない。あうあうあう。どうしたらいいんだ。
視線を反らして無言のままカチンコチンになっている私を見て、冬也さんは溜息を吐いた。


「昨夜のこと、覚えてる?」

「……いえ……記憶にございません」


消え入りそうな小さな声で正直に言うと、はあっとさらに深い溜息を吐かれてしまった。


「してないから」


へ?
パッと顔を上げると冬也さんは苦笑を浮かべて言った。


「昨日は何もなかった。李紅が心配しているようなことは何もないよ」


そう言われてそうですか、とホッとしそうになったけど、視界に入った胸元の赤い斑点が「んなわけないだろ」と物語っている。


「じゃ、じゃあこれは?」


おそるおそる指さすと、冬也さんはいい笑顔になった。笑顔だけどなんか黒い。


「鋼の理性だと褒めてくれる?」

「……はい?」


よく分からないけど、何もなかったってことだよね。
なんか不機嫌そうですが。

てことは、やっぱり何もなかったのか。
冬也さんは酒の勢いで朦朧としてうっかりその気になったけど、相手を見てやる気を失ったとか。

こんな女で、さーせん!

色気ナッシングな下着(ランジェリーではなく)姿だし、腕に毛生えてるし、あ、しかも酒臭い。
化粧もそのままだから顔もどろどろ。
……うん、心配するだけ無駄ってもんでしょう。落ち込むくらいに無残な姿。

でも私たちメシ友だから、結果オーライ。

いや、そもそも冬也さんが私ごときにその気になるとは思わないんだけど、むしろ酒の勢いで私が襲ってないかそっちが心配だよね!


「そんなにほっとした顔をされると複雑だな。俺は何もなくてがっかりしているのに」

「おほほ。嫌だわ冬也さんたらご冗談を」

「冗談だと思うなら、今から抱こうか」


かきん。と思考が停止。


「ま、またまたあ。冗談の冗談、ですよね?」


引きつった笑顔で顔を上げると、真剣な光を宿した深い青の虹彩が、アホヅラの私を映している。


「今も、昨日も、その前も。出会った時からずっと、俺は李紅を抱きたいと思ってるよ」


へ?


「気づいてなかったの?」


なに言ってるのこの人。

気づきませんでした。気づくわけないでしょ。こくんとゆっくり頷く。
だって冬也さんだよ?氷室様だよ?
ちょっとカッコいいくらいじゃなくて、ものすごい美形で高身長で素敵な骨格と筋肉してて、クールで頭がきれて、多言語しゃべれて、人脈持ってて高収入の氷室冬也様だよ?
そんな人が私のような頭脳は干物、見た目はメタボ(今は若干改善)な女を、だ、だ、だ、抱きたいとかっ…。

…あ。


「デブ専だから?」

「好きだからだよ」


閃いた答えはあっさり否定されて、すごい言葉が返ってきた。
唖然としていると冬也さんはがくりと肩を落とし、今日何度目かの溜息をついた。


「そんなに驚くこと?態度には常に出してたつもりなのに…ああ、でも昨日もはぐらかしたよね。照れてるだけかと思ってたけど」

「……だってただのメシ友なのに変なこと言い出したから混乱して」

「メシ友?もしかして本気で食事だけのために、今まで誘われたと思ってたの?」

「はい。あの、違うんですか?」


今度は冬也さんが唖然となっていた。


「俺はそんなに暇じゃないよ」

「ご、ごめんなさい」


一緒にご飯を食べる友だちがいなくて私を誘っていたのではないらしい。じゃあ今まで下心アリのお誘いだったってこと?
え、うそ。まさか。


「手の込んだアメリカンジョーク?」

「そんな訳ないだろ」


え?
ええええええええええええ!?


「疑い深いんだな。じゃあ証明してみせようか」


甘い声を混ぜた苦笑とともに、冬也さんの腕が私を絡めとる。
引き倒されて背中にはシーツ、上には獲物を狙う肉食獣の目をした冬也さんがいた。
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