恋愛生活習慣病

act.11

「昨夜、バーで飲んだ後、ちゃんと聞いたんだよ。このまま帰る?それともうちに来る?って」


耳殻をなぞるように滑る唇の感触と吹き込まれる低い声に、体がびくんと震えた。
熱を持った長い指が、私の頬から鎖骨、肩から脇腹へとひとつひとつを確かめるようにゆっくりゆっくり滑っていく。


「そしたら李紅が、いい気分だから帰りたくないって言うから」

耳たぶに軽く歯を立てた口が、次には頬に小さなキスを落とす。


「だから俺の家に連れてきたんだよ」


熱い息と声、首筋を辿る唇と明確な意図を持った手のひらの動きに、私の体のセンサーが敏感に反応してしまう。
触れられたところから、皮膚からその下へ、その奥へ、熱が広がっていくのが分かる。
この感じ、この流れ。
この展開はもしや。まさかの。

ムダ毛処理とか体の準備も全くできてないうえに、心の準備が……!


「ま、待って冬也さん」

「待たない」


抵抗して身をよじっても冬也さんは止めてくれない。
与えられる熱と雰囲気に流されそうになりながらも、私の理性と本能はぶつかり合って意見を戦わせた。頭の中と心がぐるぐると目まぐるしく動く。

このまま男女のそういうことを致していいのだろうか。
……いい、かもしれない。
たまには勢いに流されてもいいのじゃない?
こんなイケメンが干物女でもいいって言ってるのだし……。

でもそれって単に欲求不満とか、ちょっといつもと趣向を変えて摘まんでみようかな、とかそういうのじゃないの?
一応、好きとは言ってくれたけど、どの程度の好きなんだろう。
気に入ってくれているのは分かるけど……。

私はこう見えてその辺は真面目で融通が利かない。
一度遊びで寝た男と友だちを続けるなんて器用な真似はできない。
セックスは体だけじゃなく、心を明け渡す行為だと本気で思っている。
だからこの行為は本気で好きになった人としかできない。

だって自分の体の中に他人の体の一部を入れるんだよ?
病気や妊娠のリスクは避妊してても百パーセント回避はできないんだよ?
干物のダメ女だけど、そこは譲れないと思ってる。
だから、やっぱり。

イケメンだろうと気持ちが通じ合っていない男とその場のノリで寝るなんて、やっぱりできない。


「待って!お願い、冬也さん。お願いだからやめて」


本気の抵抗に、何かを感じた冬也さんの手が止まった。


「李紅?」


顔を上げた冬也さんは、はっとしたように目を見開いた後、傷ついたような表情になって私の頬にそっと触れた。


「……そんなに嫌なのか」

「え?」


瞬きをすると涙がぽろりと頬を伝って落ちた。
あれ……私。
覆いかぶさっていた冬也さんの体が離れ、代わりに近くにあったガウンを掛けてくれる。


「ごめん。俺が悪かった。……シャワーを浴びてくる」


ベッドを下りた冬也さんは、部屋の向こうに姿を消した。
後ろ姿がなんだか悲しそうだった。

起き上がった私はベッドの上で溜息を吐いた。
ホッとしたのと、気まずいのと、情けない気分でごちゃまぜだ。
恐怖や不快感はない。
冬也さんを怖いとか嫌だとかで拒否したのじゃないんだと思う。
単に私のこだわりだから。面倒くさい自分が嫌だ。

ベッド周りに落ちていた服をモソモソ拾ってとりあえず身に付けた。
このまま帰るのは余計に気まずくなりそうだし、冬也さんに誤解をして欲しくもない。

いい大人なんだから、セックスのひとつやふたつ勢いや流れでしてもいいじゃん。
とは思うんだけど、こういうところが私なんだろう。
あんな美形がせっかくその気になってるのを止めるなんて、友人たちが知ったら「バカ!」と罵るに違いなかった。

でもね。
あんな素敵な人と一度でも抱き合ったら、のぼせ上ると思う。
冬也さんのことは好きだけど、まだ特別な好きではないからこんな冷静でいられるわけで、冬也さんの見た目だけじゃなくて優しいところとか、気遣いだとか、一緒に居る時の雰囲気とか、特別な好きになる材料はたくさん転がっている。
仕事の手助けもいっぱいしてもらったし、マメに連絡もくれるし、勘違いしそうになることもあった。

忙しいのもあって見てみないふりしてたけど、こうして考えてみると結構、恋の崖っぷちに立っている。

だからこそ、安易なセックスはダメだ。

すっこーんと恋に堕ちてドはまりするのは目に見えている。
一つの物に集中したら、周りが見えなくなって嵌りすぎる自分の性格はよく分かっている。
前の彼にも、それで振られた。お前の気持ちが重すぎるって。

冬也さんは軽い気持ちと気の迷いでああいうことをしようとしたのかもしれないけど、私はダメだ。
軽くない重い女。けっこう面倒くさい女だ。
前の失恋でかなりのダメージを負って、やっと復活できたところだというのに、また失恋したくないし。
あんな思いはもうしたくない。


だから冬也さんとは、これからも適正な距離を保った良いお友達でいよう。
前に宣言した通り、冬也さんに恋愛感情は持たない。

うん、そうだ。
私はしっかり稼いでビジネスライクで素敵なヒモを養い、時にキュンとしながら妄想を楽しみ、友だちとワイワイやりながらマイペースに暮らそう。

よし。仕事は今の仕事が落ちついたら、もっと高収入の所を探そう。
それからヒモ探し。
良いヒモってどこにいるのかなあ。
彩芽の彼の友だちを紹介してもらおうかな。


「でもヒモ彼の友だちもヒモ気質かどうか……」

「ヒモがどうしたって?」

「わ!」


ホテルみたいにベッドメイキングされていたベッドを四苦八苦しながら整えていると、シャワーを浴び終えた冬也さんが後ろに立ってた。


「……帰らなかったのか」


無表情にも見えるけど、眉がほんの少し下がっている。
固い声も怒っているのではなく、私に悪いと思っているからだ。きっと。
喜怒哀楽が分かりやすいタイプではないけど、この人の感情の動きが表情でちょっとわかってきた。


「帰りませんよ。あれで帰ったら気まずくなるじゃないですか。冬也さん、泊めてくれてありがとうございました。迷惑かけてすみません」


友だちが、酔っぱらった私を仕方なく家に泊めてくれただけ。
学生の頃は、打ち上げや飲み会の後にしょっちゅう男の先輩や同級生の家で雑魚寝してたのを思い出した。
昨夜もそんなノリだったということにしよう。


「あと迷惑ついでに洗面所とタオルを貸してもらえますか?昨日そのまま寝ちゃったから顔も口もベタベタで気持ち悪くって」


話している途中で引き寄せられて抱きしめられた。
バスローブの隙間から見える素肌といい香りにくらっときたけど、いかんいかん。平常心平常心。


「顔、ベタベタだって言ってるじゃないですか。放してください」

「李紅……」


洗ってないぼっさぼさの頭の上でちゅって音がした。ギュッと抱きしめられて洗ったばかりの体に押し付けられて、冬也さんが「怖がらせてごめん。怒ってない?」と心配そうに言った。


「怒ってませんよ。むしろこっちがすみません。ってほら放してくださいって。私、汚いから」

「汚くないよ。李紅はいつだって綺麗だ」


ようやく放してくれたと思ったら頭が湧いてるような事を言って、綺麗な手で油が浮きまくった顔を包んで上を向かされた。
そして唇に落ちてきた、キス。


「好きだ。俺と付き合って欲しい」


ちょ…っ!
直球きたよ……!
150キロのストレート。ど真ん中に投げ込まれたよ…!

いや、ダメだ。負けるな私。
さっきいろいろ考えて決めたじゃないか。
浮かれるんじゃない、李紅。思い出せ、私は面倒くさい重い女30歳。
多少マシになったとはいえぽっちゃり平凡干物女で、妄想がちで怠け者で、でも思いつきで行動するし、貯金もない。
こんな女とハイスペックで眼鏡美形で気配り上手で優しい冬也さんが付き合えると思う?
で、でも好きって、付き合いたいって…!


「わ、私……」


濃紺色の瞳は私だけを映している。真剣な眼差し。好きという言葉。
踏ん張れ、私…!
足の指に力を込めて、背後の岩をしっかり掴んで、恋という崖から落ちないように堕ちないように…!


「私、恋愛は無理なんです。冬也さんに恋愛感情は持ってないって前に言ったじゃないですか。だから付き合えません…!」

「李紅」


傷ついたような表情を浮かべた冬也さんが、私の唇にもう一度触れるだけのキスを落とした。
願いを乞うような、切ないキス。


「や、止めてください。間違って好きになったらどうするんですか」

「好きになったらいいじゃないか。俺を好きになればいい」

「ダメです。無理。恋愛できないんです、体質的に」

「李紅」


三回目のキスをしようとする冬也さんを、腕を突っぱねて離した。
もうこうなったら、はっきり付き合う気はないのだと言おう。


「冬也さんとは付き合えません。私はヒモと付き合いたいんです!」
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