エリート上司の甘い誘惑

額をくっつけたまま、部長の目が閉じた。
鼻が今にもこすれ合いそうな距離で、長いまつ毛だなあって思ってた。


携帯、まだ震えてる。


どきどきするような余裕もなく、ただ息を飲むしかなく、この時間や部長の行動の意味を考える余裕もなく。


再び部長の目が開いた時には、彼は何もなかったかのように離れ視線を外しタクシー乗り場の方を見た。


「来たな、タクシー」

「え……あっ」


ちょうど、一台入ってきたところだった。


手を引かれながら、タクシーに近づくと、後部のドアが自動で開く。
促され先に乗り込むと、彼は運転手に私の家の住所を告げお札を一枚手渡した。


「えっ、部長、乗らないんですか?」


閉じてしまったドアに慌てて窓を開ける。


家は、同じ方向のはずなのに。
だから此間二人で飲んだ時は、相乗りして私を先に降ろしてくれた。


「少し、酔い過ぎた」


そういう部長の顔は、とても涼やかなものだった。


「酔った勢いで持ち帰るわけにもいかない」


きょとん、と反応の遅れた私に苦笑いをすると、くしゃくしゃと私の髪をかき混ぜる。


「お疲れ」と言って一歩下がった部長を置いて、タクシーは走り出してしまった。
角を曲がって姿が見えなくなるまで、タクシーの中で後ろを振り向いていた。


酔ってなんか、全然なかった……よね?
なんで、あんなこと。


お持ち帰り、って?


別れ際の部長の言葉を思い出して、今更ながら胸が激しく高鳴り始める。


「な、なんで?」


私はもしや、口説かれていたのだろうか、それともやっぱり揶揄われたのだろうか。
決定的な言葉なんてなかったから、やっぱりただ揶揄われたのかもしれない。


それに、顔色が変わってなかっただけで、実は結構酔っぱらっていた、とか。


いろんな可能性を考えて、やっぱり違う、何かの間違いだ、と落ち着こうとしたけれど、少しも効果はない。
嬉しいのか恥ずかしいのか不安なのか、わからないけど涙が出そうなほどに瞼が熱くなる。


いつのまにか、手の中の携帯は、着信を知らせることを止めていて。
私はその夜、東屋くんにかけ直すことが出来なかった。
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