エリート上司の甘い誘惑
昨夜の涙の残業のこともあり、その後の部長の優しいお言葉もあり、今日の私はきちんと頭の切り替えが出来ていた。


腕時計の主のことは、今考えても仕方ないことだし仕事中はちゃんと忘れよう。
そんなわけで、後もうひとつ、すっかり忘れてしまっていた出来事があった。


午後三時まであと数分。
仕事の手を休めて、軽く腕を回して肩の凝りを解しながら時間を確認して、いつも通りコーヒーを淹れに向かった給湯室で、嫌でも思い出すことになる。


香りに浸りながら、カップを並べて、一人ひとりに合わせてミルクや砂糖を入れていく。
その時、ふと後ろに気配を感じて、また東屋くんだろうと勝手に思った。


「あ、東屋くんもいる? コーヒー」


振り向かないまま問いかけて、棚に並んだ彼のカップを取ろうとした。


「俺にも淹れて」


ぴた、と手が止まる。


そうだ、東屋くんのはずはなかった。
彼は今、外出していた気がする。


懐かしい、と言えば語弊があるだろうか。
同じ部署だ。
会社ではその姿も声も全く久しぶりではないのだけど。


その声が私に、業務ではない内容で向けられたのは、別れ話以降初めてじゃないだろうか。

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