エリート上司の甘い誘惑


その居酒屋は、簡易的なパーティションだけでなくきっちりとほとんどの席が建具で仕切られている。


多少の話声は聞こえても、よほどの大声でない限り話の内容までは聞こえない。
だから気兼ねなく話せるし足も崩せるし、望美と飲みに行くときのお気に入りだ。


ここなら、もし万一会社の誰かと居合わせても、話を聞かれる心配はない。


「考えてみればさあ、考えてみればよ」

「はいはい」

「私、園田の部屋って殆ど行ったことないのよね。私のとこの方が落ち着くからとか散らかってるから、とか」


とくとくとく、と空になったグラスにビールの注がれる音がする。
真正面に座った東屋くんの手には、特大サイズにピッチャーがあり、彼は私のグラスに注ぎ終えると自分のグラスにもそれを傾けた。


「その時点で怪しまない私の馬鹿!」

「さよさんが素直なんですよ」

「口が上手い」


ゴッゴッゴッ、と音が鳴りそうな程に勢いよくグラスを空ける。


「褒め言葉ですか」

「…………わかんない」


例えば自分と無関係な人間に、優しく煽てられるなら褒め言葉であったかもしれない。
そこに端から責任なんてないのがわかってるから、言葉以上の期待はしないし聞き流して忘れられる。


そう、例えばあの夜のバーテンダーのような。


「園田さんは上手かったんだ」

「上手かったよー」


上手かったよ。
でも、通りすがりや飲み屋のバーテンダーのように一見ではなく私と園田は付き合ってたのだから、信じて良かったはずじゃないのか。


あ、違うのか。
付き合ってたと思ってたのは私だけだったのか。


「あー、むかつく」


むかつく、という言葉は便利だけど、単純すぎてその言葉だけでは私の気持ちを全部表すには足りない。


腹立たしい、けど、寂しい。
寂しいけど、戻って来てほしいわけじゃないし、でも例えば園田が。


園田が結婚に後悔して、私の元に戻りたいと言ったら?
私の気持ちは晴れるのだろうか。


もう二度と好きにはなれないし、だったら幸せになってくださいと願えればいいのだが、私はそれほど人間が出来てない。


「あー、ブルームーンが飲みたくなった」

「ああ、カクテルっすか。いいですね……けどここにはないな」

「あのバーのカクテル美味しかった」


口の上手い煽て上手のバーテンダーを思い出していて、ふと、気付いた。
あの店に行けば、あの日私が誰に出会ったか、どんな相手だったか聞けるんじゃないだろうか。
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